僕自身の習慣もそうなんだが・・・
日付が変わる前の半時間ほどが、この画面に向き合ったいる
習慣と言えば習慣
今日一日の何らかの証を書き留めておきたい・・・と
正直言って、下書き的に書く行為は、ほとんどないと言っていい
願わくば・・・
ボールペンや鉛筆で殴り画くようなものが
画面に表れないかな・・・と思ったりする自分がいる
瞬間ふっと・・・とんでもない言葉が蘇ったりする
「私が治してあげる!」・・・何を?
「左が小さかったね」・・・何の?
「意外と狭いでしょ?」・・・何が?
B型さんの面目躍如!
踏み込まれ、翻弄され、捨てられる
直感の鋭さ、怖さ・・・
こちらより数歩先を行く
追いついたと思えば、もうはるか彼方
本意と裏腹な言葉を発することのできる精神構造
そしてその分かりやすさ
その振り回されように酔う自分
こちらは、もう一人のじぶんを持っているつもりだが
貴女はあなたそのもの〜一個の個体
裏表のない一個の難解人物

「ナベちゃん、負け残ってるな〜」と、半ばからかい気味に言われる僕ですが、
たしかに的を射た言葉なわけで、自嘲気味に笑いを返すだけの僕なのです。
花村萬月の自伝的小説「百万遍 青の時代」の主人公(惟朔)の中に自分を重ね合
わせる僕がいる。暴力や過度の性的体験以外は、その内容がまさに酷似している。
家出、宗教施設、寝袋、ジーパン、長髪、ゴミのような寝場所、バイト(大丸)、
音楽喫茶店、ロックバンド「村八分」、異性との接点・視点・母性、、、を殊更に
避けた感じは否めないが、実際はほぼ酷似している。
僕の場合は、殊更にさらりと客観視したところがあり過ぎる。と言うよりは、自
分をよく見せたいという飾る意識が強すぎるのだろう。本質を逃げていると言われ
ても弁解のしようがない。要は焦点の当てどころ、ズームアップの度合いの問題な
のだろう。少しの文才めいたものがあれば、それなりの自伝小説が書けたかもしれ
ない。そんな幼少期から青春時代への二十数年である。
