あなたもテレビにかじりついていたんじゃないですか。
やりましたね❗ニッポン‼️
あなたは、富樫や河村の存在だったね。我々の時代はトップと呼んだ。
クォーターやサイドも今は違う言い方だ。
僕は左45度。切り込むドライビングショットが得意だった。
現在のようなスリーポイントも無かったし、劇的な逆転は少なかったね。
今では当たり前のオールコートプレスはしんどかった。
あなたは、脚力を鍛えるための自転車通学。部活が終わってからのシュート練習…
まさに努力の人だった。
男女の違いこそあれ、河村選手や富樫選手に、あなたを重ね見ていたよ。


「因果応報」昨日為したことの報いが、今日に現れるということもあるだろうが、
何十年前に為したことが、今日にその報いを受けるということだってあるのです。
それは確信をもって言えます。
そして悲しいことに、あまりの時の移りの長さ故に、当事者はそれを自覚できな
いということが、あまりにも多いのです。
観念的に言えば、この世でその報いを受けることはまだましで、その重荷が
来世に持ち越してしまえば、その自覚や反省さえできなくなってしまうのです。
「隔生忘却」とはそういうことです。前世でこんなことをしたから、今生では
こう生きようとは行かないのです。

明日は母の命日。
父曰、「九月一日は、防災の日ならぬ亡妻の日である」
僕の誕生日が今日〜八月三十一日だから僕の満三歳の誕生日の明くる日に
母は亡くなった。
これまた父曰「最愛の末息子の三歳の誕生日まではと懸命に生き抜いて、まるで
それを見届けて安心したかのように逝った」
そしてまた父曰、「三つ子の魂、百まで・・・が本当なら、せめて母の最後を
見届けさせようと、抱きかかえて柩の前に立った」
まさしくその行為は大きな事実を残し、僕の脳裏には柩の中の白装束の母の姿が
鮮明に焼き付けられている。父のその行為が無ければ、僕の記憶の中には母の姿が
まったく残らなかったと言うことになる。
母、恋いし・・・そして懺悔・・・
生誕まで一カ月も胎内に留まって、母の寿命を縮めた僕・・・
亡母の命日の前夜の誕生日・・・
