マグマが溜まりに溜まって、爆発寸前なんだけど、
妙なもんで、どっかにエネルギーの抜け穴があって
そこに流れ込んだものだから、爆発は回避されたわけ・・・。
その事には、自分の中でも賛否両論あるんだけど
大人の流儀というか、俺も歳をとったものだといううか
大きな流れには身を任す的な自分がいる。
人の噂に一々反応してたら、幾つからだ有っても足らないけど
何て言うんだろう・・・
どこか・・・「糞喰らえ!」的な自分が居る。
大人社会は、何でもかんでも口にするわけではないし
むしろ当人のいないところで噂もし、貶しもするわけで・・・
しかし、いつものことながら・・・
言ってしまった後の、あの空虚感ったらありゃしない。
でも逆に、言わなかったときの消化不良感を想像した時
ああやはり吐き出しておいて良かったと思う。
それにしても、いわゆる「名聞き役」がいなくなったものだな。
僕はその存在足り得ると思ってはいるのだが・・・。

人間、居場所が変れば、俄然隠れた才能が開花することがある。
スポーツの世界に限らず、仕事や仲間づきあいにおいてすら・・・。
<水を得た魚>の表現が当てはまるかどうかはわからないけれども、これまで
抑制され続けた世界から解放されて、活き活きと動き回っている人がいる。
これまでの障害物?を云々するよりも、先にある光に向って進むという選択肢は
正しかったと思う。
さて、わが身に置き換えて考えた時、いわゆる障害物に立ち向かい続けるのが
良いのか悪いのか?彼のようにハッキリ訣別という選択が良いのか悪いのか?
もう一人の自分を見つめ直す時、しゃがみ込んで、エネルギーを溜めこんで、
ジャンピングアップの機会を伺う姿に、共鳴する自分がいる。


本の帯に、「自分と妻」の死後の出版を条件に・・・と書かれているように、まさしく赤裸々な内容で、どちらが存命中でも出版は難しかったであろうと、この僕でさえ思う。
読みながら、まったくスケールや舞台や異性の度量などの違いはあれど、わが身にもそれらと酷似した体験があったなと思いながら読み進んだ。僕も、ここでそれなりに書いてはきたつもりだが、やはり存命中のひともあり、自分も生きているとなれば、その中身には当然ながら限度がある。
結論付けるほどのことではないが、そうした体験が自分と言う「男」を形成した貴重な必要欠くべからざる源であることは断言できる。