同姓だった。
三つ年上で、彼女のお母さんも先生だった。
県境の米子で働いていた。
米子は同じ山陰なのに、なぜか都会的な雰囲気の街だった。
東京スタイルというか、垢ぬけた雰囲気だった。
山陽との交通の要所だったからかもしれない。
お母さんや妹さんたちは、出雲大社に住んでいた。
理由は聞かなかったが、何かの理由で親夫婦の仲は良くなかったと聞いた。
いつものパターンで、僕たちは姉と弟のような関係だった。
詳細を知らない人から見れば、それで通ったかも知れない。
夫々の親たちは、これまた夫々に悩みを抱え呻吟していた。
その一種ドロドロとした闇の中で見つけた、灯だったのかもしれない。


不愉快極まりない話を聞かされた。
某有名作家の、偉大な某詩人の実態は、○○だった××だった・・・
と言うもの。
その考えには声を大きくして反論したいね。
世間的な目から見ての実態がどうであろうが、彼(彼女)から生み出される
小説が、詩歌が、或いは絵画が、
世の人に感動を与えれば、それだけで素晴らしいことじゃないか。
逆に言えば、そうした現実があったればこその作品じゃないのかな?
もう何十年も前の話だが、似たような経験をした覚えがある。
それは・・・「宮本武蔵」
吉川英治のそれは誰にでも感動を与えた筈だ。
そこへ後年、「新説 宮本武蔵」なるものが出て、ドラマ性のない
リアリティーの世界を突き付けられると、感動の風船は、一気にしぼんで
しまった。
ぐっと砕けて・・・
こんな歌を思い出す。
♪ひとの妻とも 知らないで
おれはきたんだ 博多の町へ
逢わなきゃよかった 逢わないで
夢にでてくる 初恋の
君をしっかり だいていたかった

「もらい湯」と書けば、これは現代ではもはや死語かも知れない。
母の死後、父は再婚し、隠岐の島から松江に移住した。父は教師と言う仕事柄、
転任を繰り返したこともあり、僕は小学校を卒業するまで、ほぼ毎年転居を余儀な
くされた。ようやく義母の里の家に落ち着いたのが六年生の時だった。母屋の裏に
あった納屋を改造して、そこが僕たちの住まいとなった。兄と姉は、通学の都合や
義母への抵抗感が強く、母方の親戚に身を置いていた。
建物の構造上、当然ながら風呂は無く、母屋のお風呂に入れてもらうことになっ
た。いわゆるもらい湯だ。五右衛門風呂だったから、その沸かし役は僕だった。
新聞紙で火種を作り枯れた松の木、そして薪という順番で沸かして行った。蛍の光
ではないが、その灯で本を読んだ記憶がある。
僕たち家族が入れるのは当然ながら母屋の人たちの入浴後であり、日が代わるこ
ともしばしばだった。隣が寝室と言うこともあり、できるだけ音を立てないように
随分と気を遣った。
こんなことの連続の中で、僕の性格は出来て行ったのかもしれない。いつも言う
<ピエロ性>だ。顔で笑って心で泣くいつもニコニコの<笑顔良しのあきちゃん>
だ。
