蘇った<貴婦人>・・・と言っても、僕が勝手に命名した野良猫なのだが・・・。
彼女は、けっこうなお家の(おそらく)飼い猫で、種類の名は知らないが、血統書付と言っても過言ではない、真っ白な毛並みでしゃなりしゃなりと悠然と歩く〜まさに貴婦人そのものだった。
事情はわからないが、その彼女が野良となってしまったのは、もう五〜六年も前のことだと思う。ガレージの片隅や、家と家の狭い隙間で震えている姿を見かけるようになったのだ。そして火曜と金曜のゴミ収集の日の、散らかしの犯人が彼女であることが判明するには、そんなに日を要しなかった。
何より容姿が目立ち過ぎるし、育ちの良さ故(?)俊敏さに欠けていた。後始末をぶつぶつ言いながらやっていた僕だったが、カラスとは違って、可哀そうさが先にたって、どうしても憎む気にはなれなかった。
やがて見事な白肌(?)も薄汚れ、自慢の容姿も見る見るうちに痩せ細って行った。どんな事情があったのか知らないが、これほどの家族を放り出してしまった飼い主の家を憎んだりもしたものだ。
数年後、それなりに野外生活に慣れた彼女は、当然と言えば当然なのだろうが、子供を産み、親としての責任からか・・・おどおどした印象は徐々に消えて、逞しささえ生まれてくるようになって行った。
最近、その貴婦人一家に変化が生まれてきた。野外生活に変わりはないのだが、どうやら食事の世話をする人間様が現れたようなのだ。僕なりに観察をしていると、その主はすぐ近所の家のお嬢さんのようである。周りには気を遣いながら、そっと呼び寄せて餌を与えている場面を何度か目撃した。
安心させられたような・・・そうでもないような・・・複雑な気持ちでいる今日この頃である。

<時代という暴力>とでも言おうか・・・
個人的な努力や研鑚の積み重ねでは、どうする事も出来ない圧力が伸し掛かる。
自分にとっての大切な時期を、どんな時代に生きたのか〜これは深刻な命題だ。
<時代の波>と言う人もいるだろう。
<運・不運>で片付ける人もいるだろう。
戦争や革命(維新)、天災や公害・・・時代を区切る要因は数知れない。
しかし、何と言っても最大のポイントは<時の流れの速さ>ではなかろうか。
そのスピードがあらゆるものに影響を及ぼし、打撃を与え、ついには破壊する。
みんな・・・何のために生きているのだろう?
そんな大きな時のうねりの中で、何を目指して生きているのだろう?
勝ち組があり、当然ながら負け組があるわけだが、
何をもって勝ちと言い、負けと言うのだろう?
「昔は(あのころは)良かった」と言えば、くだらない感傷と葬られ
ITに長けた連中が、時代の寵児ともてはやされる。
何のための人生なのか?
切り込む角度によっては、答えは大きく変わる。
成功、不成功に関わらず、達観した者は、全てを無にしてしまうかも知れない。
良い意味でも悪い意味でも、欲心がエネルギーとなり、人は突き進む。
人間様は・・・「わたしは無欲だ」と言えば嘘になる。
たとえそうであったとしても、それは自分を誤魔化しているに過ぎない。
連休・・・