数夫はいつも肝心のことは言わない。
大事なことは、心とからだの奥に仕舞って流れにまかせて生きてゆきのが好きなのだろう。
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姉の心とからだがまだ住んでいる男のそばで苦しみ澱むより、川の流れではないが、海へ出て、別な世界で生きるほうが、世間で言うしあわせかも知れない。
しかし、握り返してくる数夫の指の力を信じて、もうすこし、ここに居たいと素子は思った。苦しい毎日だったが、苦しい時のほうが、泣いたり恨んだりした日のほうが、生きている実感があった。
これも幸福ではないのか。
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「幸福」 向田邦子