「魔がさしたんだな」
憲太郎は、そうつぶやき、フンザで撮った写真のなかの、山羊の群れと一緒に歩いて行く自分のうしろ姿を見つめた。この一枚の写真には、自分という人間のすべてが写っているように思えてきた。自分の過去と現在の、ありとあらゆる様相が、自分のうしろ姿に閉じ込められている、と。
もしそうなら、未来を暗示させるのも、どこかにひそんでいるはずだ。憲太郎は、その気配をみつけようと、長いこと写真に見入った。
憲太郎は、どうも日本の親子関係というのは、本来の日本人のやり方とは合わないのではないかと思った。子どもの個性とか自由とかを尊重するというのを大義名分として、わずらわしさから逃避しているのではないのか。親子に葛藤があるのは当然なのに、それを避けて、いかにも、物分りのいい、干渉しない父や母を演じようとしている。
草原の椅子(宮本 輝)
「知的な人は、常に何が正解かわからない、と考える。
何かに強い確信を持つのは、いつも知的でない人のほうだ」
(ジョージ・バーナード・ショー)
現代社会は、「どちらが正しいか、間違っているか」が何よりの争点で
それぞれの感情の処理には、まったく思いをめぐらせない。
間違っていると断罪される側にも、言い分はあるし、
止むなくその側におかれている場合だってあるわけで・・・。
ただそれを言葉にしてしまえば、相手の反感を増幅させるだけであって
結局は口を噤むことになってしまうのです。
立場が逆転した状況下で、相手がどう出るか、何を語るか
それは冷静な意識のもとで、興味深いことではあります。
二月五日
苦しみや悲しみの多い人が、自分は神に愛されていると分った時、
すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい。
二月六日
自分に対して、心から理解しわかってくれる人が数人あれば、
一応この世の至楽というに値しよう。
二月七日
金の苦労によって人間は鍛えられる。
二月八日
人間は腰骨を立てることによって自己分裂を防ぎうる。