私なんか、この世にいてもたいしたスペースはとっていない、そういうふうにいつでも思っていた。人間はいつ消えても、みんなやがてそれに慣れていく。それは本当だ。
でも、私のいなくなった光景を、その中で暮らしていく愛する人々を想像すると、どうしても涙が出た。
私の形をくりぬいただけの世の中なのに、どうしてだかうんと淋しく見える、たとえ短い間でも、やがて登場人物はいずれにしても時の彼方へみんな消え去ってしまうとしても、そのスペースがとても、大事なものみたいに輝いて見える。
まるで木々や太陽の光や道で会う猫みたいに、いとおしく見える。
そのことに私は愕然として、何回でも空を見上げた。体があって、ここにいて、空を見ている私。私のいる空間。
遠くに光る夕焼けみたいにきれいな、私の、一回しかないこの体に、宿っている命のことを。
「おかあさーん!」 よしもとばなな

今で言えば、ツイッターのようなものかもしれなかった。文字通りの、最晩年の父のつぶやき。誰のも明かすつもりのない胸の内を、日夜夜毎、綴っただけの自慰ようなしろもの。死にかけた老人のロマンティシズム、センチメンタリズム、愚痴、後悔、不安、諦めがこれでもかと詰め込まれた、ただの日記、がらくたのような散文・・・。
「沈黙のひと」 小池真理子
この中に・・・
「誤解を受けるのを恐れずにいうと、私は、ある意味で、戦争が好きだ。いや、やはり誤解を避けるために慎重を期すと、戦争について感じたり考えたりするのが好きなのである。
戦争は、生命という「生の基本的手段」を危殆に陥らせる。だがそのことによってかえって、「生の基本的目的」が那辺にあるか、あるべきなのかが切実な問いとして浮かび上がってくるのである。
死を間近にしてはじめて生が輝く、という逆説から人間はついに自由になることはできないのではないか。戦争についての感受力と思考力と行動力を失った国民には、結局とところ、平和の有難味を知ることすら叶わぬのではないか。
戦争という非日常性の事態に対応できないような人間は、裏を返せば、闘いと戦の要素を含むのが日常生活であるという平凡な一事をわきまえておらず、それゆえその日常生活の中心には大きな空洞が穿たれているのではないか。
「戦争論」 西部 邁