♪白樺 せせらぎ 木もれ陽あびて
君と歩いたこの道 はるかな愛のわだち
空よ風よ なぜこんなにも
遠くて近い みんな過去なのに
こころの中で今も くるしくなるほど
愛しい君に また逢いたい
鳥よ川よ 夢おきざりに
生きてはゆけぬ 命あるかぎり
こころの中で今も せつなくときめく
愛しい君に また逢いたい
(奥入瀬)
脱出はスリル満点だった
脱出の先には、希望と不安が複雑に入り混じっていた
脱出の責任は、すべて自分に跳ね返ってきた
脱出に、成功も失敗もない
振り向けば、裏切りがあり無礼が山ほどあった
若さゆえ・・・で差し引いても、有り余る身勝手であった
しかし、トータルで考えても
脱出しかなかったと思う
マインドコントロールの裏面は、信じる心である
その世界に在る者は
コントロールされてるなんて、これっぽっちも思っちゃいない
抜けて・・・何年も何年も経ってから言える呪縛の恐ろしさ
その恐ろしさは、彼らにとっては正反対に救いである
どちらが幸か不幸か?
存在する側によって、両極端に判定は分かれる
♪空よ 水色の 空よ
雲の上に 夢をのせて
空よ わたしの 心よ
思い出すの 幼い日を
ふるさとの 野山で
はじめて 芽生えた
あどけないふたりの 小さな愛
空よ 教えてほしいの
あの子はいま どこにいるの
(トワ・エ・モア)
あれは・・・
春の新人戦だったろうか
それとも、近隣の中学校との練習試合だったろうか
左45度からドリブルでカットインして
相手ディフェンスを避けながら
僕は左手でランニングシュートを放った
ボールはボードに際どく撥ねて
スパッとネットに吸い込まれた
その瞬間・・・
当然と言えば当然なのだが・・・
家出息子と父親の間には
何とも言い難い
壁というか溝というか
そんなものが横たわっていて
会話もひどく他人行儀だった。
父は怒りや瞋りは言葉や行為にあらわしたが、悲しみについては言葉にも表情にもあらわさずに、いつも耐えていたと思う。わたしは父からそれを「父の像」として確かにうけとった。そしてじぶんのものにしたとおもう。それからあと父にまつわることではいつも頼もしい息子とみえるように、つとめて振る舞うようにした。気分が引っこみ、ためらいや恥ずかしさに襲われ、どうしてもそう振る舞いたくないと内心でおもえるときでも、おし切るようにして父親を悲しませないようにと積極的に行動するようにつとめた。
この悲しい父親像を通じて、わたしは「父」が広大な自然よりは、「強大な意志」だということを学んだ気がする。そして高村光太郎のように「常に父の気魄を僕に充たせよ」と願ってきたが、そんなに思い通りにはいかないで、生涯の大半を過ごしてきてしまった。
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ただもっと胸の奥をこじ開けてみれば、太宰治ではないが、白い絹の布地に何やら蟻がぞろぞろ列をなしていったあとに、象形文字にも仮名にもならないような、父としての存在の跡のようなものがのこされている気がする。それはわたし自身にも判読できない。だから、何と書かれているかということができないが、その痕跡はたしかに押印されていて、わたしが「父」であることを、何ものかに向って証明しているような気がする。(吉本隆明・父の像)
「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ・・・」
雑賀小学校の第二講堂、年に何回か映画鑑賞の日があった。
六年間にはかなりの映画を観たのだろうけれど、記憶に残っているのは・・・
この「風の叉三郎」だけだ。 しかも映像よりもこの風のざわめきのような、呪文のような歌。
そして・・・
宮澤賢治に触れたのは、それから随分時を経た放浪の旅先だった。
S先生の英会話教室のメンバーに、看護婦のHさんがいた。
頭のてっぺんから声が出ているようなひとでチャキチャキ娘?だった。
帰りに喫茶店へ誘われた時、「わたし・・・フランスへ行くの」と聞かされた。
(フランスなのに英会話かよ!)と思ったが、言わないでおいた。
次の機会に「今度の日曜日、休みだから奈良へ行こう!」と誘われた。
何から何までリードされっ放しで、まるで幼稚園の先生と園児のようだった。
そんな時間あったのかと思うくらい、豪華なお弁当も用意されていて感激ものだった。
僕は、大阪に住む友人とアメリカ往きの準備中だったので、無駄遣いは許されず、ひたすらバイトバイトの連続だったから、この小旅行はちょっと心に迷いを生じさせるような出来事だった。
そのわずか数カ月後、彼女が本当にパリに出発したと聞かされて、僕はビックリ仰天だった。
オンナは強い!それはそうと・・・そもそも彼女は何を目的としてフランスへ行ったのだろうか?料理?ファッション?聞く前に行ってしまった。
六畳一間の安アパートには、ほんと何もなかった。二畳に満たないキッチンと階段上の押入れ。狭いベランダの奥にトイレがあった。食卓兼机代わりの電気コタツ。部屋の三分の一を占領するボストンのオーディオセット。友達から譲り受けたギター。布団はなく寝袋がひとつ。
壁にはミックジャガーとシルビーバルタンの大型ポスター。ジーパンが4〜5本。ちょっとおしゃれ用のベッチンのブラウンスーツが1着。Tシャツとボタンダウンのシャツが数枚あるだけだった。ウエストは70センチ〜今では想像もつかないガリガリだった。無理もない・・・家出野郎のさすらい人生で太る余裕などあろうはずがなかった。
階下にはバスガイドの姉妹がいて、隣には若夫婦が住んでいた。夜中の地震?と声に慣れるまでは時間がかかった。田舎者で奥手な僕には、それなりの時間が必要だったわけだ。持つべきは適当なレベルの悪友だ。
西側の窓から見える夜景が素敵だった。京都タワーとその周辺のネオンサイン・・・しばし現実を忘れさせてくれた。タバコは何を吸っていたんだろう・・・パーラメント?ショートポープ?どっちにしてもファッション的小道具だったからあまり覚えていない。
風邪でダウンした時は、寝袋の中で犬のように眠り、ひたすら回復を待った。三日三晩動けなかったこともあった。人間の持つ自然治癒能力には、なぜかしら確信めいたものを持っていた。発汗するまでが勝負で、びっしょり汗をかいた後は驚くほどの壮快感だった。
いつも言葉を探している
これだ!というぴったりの言葉を
でも・・・見つからない
胸のつかえと同じで
出そうだけれど出てこない
野に咲く花の風景を
そのまま届けることができたなら
言葉なんていらないんだけれど
頬をやさしく撫でるこの風を
そのまま届けることができたなら
言葉なんて・・・