帰 省
「やれ、帰ったかい!暑いのを〜」
「水・・・浴びんかね」
いつ帰っても、父は必ずこう言った。
水浴び(行水)なんて言葉は、父親世代までだろう。
今なら、「シャワーでもせんか」的な感覚だな。
言われた通りに水浴びをして、扇風機の前で涼んでいると
いつの間に出かけたのか、麦わら帽子を被った父が帰ってきた。
手には大きなスイカがぶらさがっている。
「よう冷えちょうけん、食わぁや」
とにかく父はよく歩く。
バスの3〜4停留所くらいの距離はスタスタと平気だ。
長寿の秘訣は脚力・・・たしかにそうだと思う。
歩けなく(歩かなく)なったら見る見るうちに老化は進む。
しばらくすると台所で何やら音がする。
見ると、素麺を手早く湯がいてザルに移し替えている。
父は長年、義母の介護をし続けているから、何事も手際よい。
男のおおざっぱさは仕方ないとしても、ちょっと真似のできないことだ。
僕がテレビで高校野球のの中継を見ていると、父は・・・
広告チラシの裏の白いのを束ねたものに、何やら鉛筆を走らせている。
いい句が浮かんだのか・・・
久しぶりに帰った息子の横顔でもデッサンしているのか・・・
こういうところは見習いたいなぁ〜と思う。
トンボつり
宍道湖とは逆の山手の方に、小さな集落があった。
そこに同級生がいて、夏休みにはよく遊びに行った。
小川では、メダカやアメリカザリガニを捕り、田圃の畦道ではトンボ釣りをした。
狙いはもちろんオニヤンマで、ふつうのトンボを細い糸にくくって、
笹竹を振ってオニヤンマを待った。
上手く後ろに飛んで来たら、ゆっくりと地面に向かって旋回させた。
降りたところで素早くタモを被せて成功!
林の中では、セミ捕りをした。
僕は透明な羽のクマゼミが好きで、けっこう根気よく探し回った。
アブラゼミやニーニーゼミ(?)にはまったく興味がなかった。
あれは何年生の夏休みの終わりだっただろうか?
あれは小学校の低学年のころだったろうか。僕は父が勤務していた田舎の小学校の宿直の時、一緒について行って宿直室で泊まったことが何度かある。教室棟からちょっと離れた場所に用務員室があり、そこが宿泊場所となっていた。当時は用務員のひとを「小遣いさん」と呼んでいたような記憶がある。曖昧だが・・・。あるいは夫婦だったのかもしれない。晩御飯をごちそうになった記憶もうっすらとある。
夜の何時ごろだっただろうか、決まった時間に校舎の見回りが義務付けられていた。父は懐中電灯ひとつを持って部屋を出た。僕は一人で部屋に残される方が怖くて父の後をついて行った。たぶん夏のことだったんだろう、まわりの田んぼからはカエルの鳴き声が喧しかった。
父は不意に電燈を消して僕を驚かせたり、わざと怖い話をして僕の反応をおもしろがったりした。かと思うと、急に大声で歌を歌いだしたり奇声をあげたりした。(後々僕はそれらの行為を宮沢賢治的と捉えてよく思い出した)
見回りのあるとき、僕はお腹の調子が悪くなり、父に訴えた。その時の父は一緒に便所までついて来てくれて、「腹を時計回りにグルグルグルグルとゆっくり回すんだ」と言った。「もっと姿勢をちゃんとして!」言われた通りにすると、やがてお腹の中でゴロゴロしていたものが、一気に下降してスッキリとした。
似たようなことが生まれ故郷の隠岐の島へ帰る船の中でもあった。いわゆる船酔いなのだが、父は僕をトイレに連れて行き、「人差し指を喉の奥に突っ込んで下へ押してみろ!」と言った。半信半疑ながら言われた通りにすると、「オエッ!」という声とともに腹の中のものが口から飛び出してきた。「もう一度!」何回か繰り返しているうちに、もう吐き出すものはなくなってしまった。その時はどうなることやらと思えるような苦しさだったが、あとは爽快そのものだった。
僕は甲板に上がって日本海の荒波を前に、大きく深呼吸をした。
山あれば
山あれば
谷あり
谷あれば水あり
うつくしきかな
家あれば
母あり
母あれば涙あり
やるせなきかな
母を慕う
母を慕う
わが心 すなおなり
母にそむく
わが心 いがむなり
このふたつ
いつも母の姿につながり
からみあいて この年までつづきぬ
あわれにしておかし
詩集・おかさん(サトウハチロー)
<青春回帰>
大胆と繊細
奔放と常識
それら両極を有するから
絡まってあるいは交互に・・・
戸惑う僕
振り回される僕
それさえも
楽しむかのような
飛翔と墜落
心的鬼ごっこ
ちっちゃく固まっていたのは
僕で
広く大きくしなやかだったんだ
君は
そして僕は
トルネードのように
吸いこまれて行った
あのとき
たしかに君は笑っているように見えたんだけど
今思えば
どことなく淋しさを含んだ影があったような
実は僕も
言いたかったことが言えなくて
面白くもない世間話をして別れてしまった
影の源が
そんなに深刻なこととは思いもしなくて
僕もまた
心の嘆きを打ち明ける勇気がなくて
二人とも
道化師のように振舞ってしまったんだね
あれから
君は僕の前から永遠に消えてしまって
僕だけが
独り取り残されてしまった
夏が来て
うだるような暑さの中に
僕は君の涼やかな笑顔を想い出す
♪空よ 水色の 空よ
雲の上に 夢をのせて
空よ わたしの 心よ
思い出すの 幼い日を
ふるさとの 野山で
はじめて 芽生えた
あどけないふたりの 小さな愛
空よ 教えてほしいの
あの子はいま どこにいるの
♪想い出つまったこの部屋を
僕も出てゆこう
ドアに鍵をおろした時
なぜか涙がこぼれた
君が育てたサボテンは
小さな花をつくった
春はもうすぐそこまで
恋は今終わった
この永い冬が終るまでに
何かをみつけて生きよう
何かを信じて生きてゆこう
この冬が終るまで
僕がバイトで行っていたD百貨店の従業員用のエレベーターは手動式だった。もう四十数年前の話だ。低速、中速、高速の三台があって、昔の外国映画に出てくる〜あれとまったく同じだった。当然ながら扉も手動で、内側の斜め格子状の扉を閉めると可動できた。
壁付けされたハンドルを左右に回すことで、上下させることができて、手を離した中間でストップだった。問題は各階とのレベル合わせで、特に高速のは慣れるまでに苦労した。たとえば五階で停めようと思えば、四階を過ぎた瞬間にOFFにしなければ、通り過ぎてしまうという具合だった。うっかりしていると、最上階や地下にドスン!とぶつけてしまうことも度々あった。
もちろん呼び出しのランプによって移動するのだが、レベルをわざと外して停めて、女子従業員たちをキャーキャー言わせて喜ぶ先輩たちもいた。いちばん退屈だったのは低速台で、荷物用として大方は利用され、ちょっと薄暗い照明のため陰気な感じだった。
たしか三十分交代だったと記憶している。交代したら屋根裏の機械室の一角で休憩をした。機械の油臭さと、ギー・ガタン!ギー・ガタン!の騒音の中、もっぱら読書をしていた。
忙しかったのは昼食時で、定員オーバーのブザーは鳴るし、満員で通過ばかりして、中間階の人たちに怒られるし・・・それはそれは大変だった。もっと大変だったのは、催し会場の変わり目の時で、特に家具展の時はまさに戦争状態だった。物は大きいし、各業者が先を争って載せようとするし、半分けんか腰状態だった。
そんな中・・・
♪青臭い奴だと 笑わば笑うがいい
僕らの汗は 僕らだけの勲章さ
小さな肩をかすめた大きな怒りよ
もっともっと 激しく土の上を転がれ
あゝ 時代は僕らに雨を降らしてる
いやでも ひとつづつみんな大人になってさ
だましだまされ 臆病になってきた
踏み出すことをためらう時は終わった
出航まじかの世代がもうそこまで来てる
あゝ 時代は僕らに雨を降らしてる
新しいピアノに耳をかたむける
どこからか僕たちだけの唄がきこえる
これからあと どのくらい叫び続けよう
鍵盤に僕らの明日をたたきつけるんだ
あゝ 時代は僕らに雨を降らしてる
(長淵 剛 ・ 時代は僕らに雨を降らしてる)