縁なき人は、必然的に離れゆく
縁ある人は、時を要しても繋が
るべくして繋がる
知己とはそういう存在だ
知己に巡り逢えることは
人生最大の悦びだ
今、信仰二世、三世の問題で世間が揺れている。そこに起因して一国の総理が殺されたのだから、単純な問題ではないことは明らかだ。僕は団体は全く違うが、主体側と信者側の両方を体験しているので、一概に結論めいたことは言えない。団体そのものの内部でも法廷闘争は頻発していた。僕はその混乱の中で際どく脱走したのだ。一般社会に戻った後しばらく、僕はマインドコントロールの恐ろしさを嫌というほど味わった。もっとも顕著だったのが、二年後れの大学受験をした時だった。ごく単純な小論文だったのに、それが書けなかったのだ。頭に浮かび上がってくるのは、教義的な文章ばかりで、全く世間常識的な文言が浮かばなかったのだ。その屈辱的な挫折に始まり、本当の意味で普通人に戻れたのは、更に三、四年後だった。心の住む世界が対極にあるわけだから無理もない。だから、今話題の教団もちょっとやそっとでは、はい、終わり!とは行かないはずだ。端から見ればの洗脳も、当事者にすれば超真面目な信奉であって、少々のことで揺れ動いたのでは、全うな信者とは見なされないわけで。
子供たちの安心、安定の生活は、普通にとらえれば結構極まりない話なんだろう
けど「非情」とも捉えられかねない表現だが、「波乱万丈」こそが、本当は当人に
とって「幸い」なことではなかろうか?もちろん「時代性」も絡んでくるだろう。
欲望的にバブル時代を生きた人たちが、果たして本当の意味で「しあわせ」かどう
かは、大いに疑問の残るところだ。
よく言われることだが、我々団塊世代より10年上の世代の人たちは、大方が前述
の恩恵に預かっているはずだ。それが羨ましいという意味ではなくて、やはりそこ
には表面的な軽く薄い「幸せ感」しか伝わってこない。加えて言えば、それらすべ
てがあたかも自分だけの実力、力量にゆらいするものだと思い込んでいる人がいか
に多いかということだ。
リリーフランキーの「東京タワー〜オカンとボクと時々オトン〜」を見直した。
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母の葬式の時、満三歳に成ったばかりの僕を抱きあげて、父は棺桶の中の母を
見せた。意図的に・・・。「母親の想い出が何も無かったら可哀想すぎるやろう」
との思いで。その作戦?は見事なまでに成功?して、僕の脳裏にはその場面が
鮮やかにインプットされたのだった。映画の1シーンのように部屋の間取りや坐棺
の位置さえまで蘇る。大きくなったもう一人の僕が、その背後からカメラのシャッ
ターを押すかのように・・・。
父の目論んだ「三つ子の魂百まで」の本意からは少々外れているかも知れないが、
ことの結果は抜群の効果をもたらした。家なき子ならぬ本当の意味での母なき子に
ならなくて済んだのだから。僕が未来の世捨て人的人間に成ったのは、この瞬間が
あってのことだ。叔父が成人した僕に言い放った「おまえは世捨て人みたいな奴だ
な」の言葉は僕にとっては最大の誉め言葉なんだ。だって、僕はいつだって母と共
にいられるのだから・・・。
(名誉欲)と(財欲)か・・・
これは全くゼロというのは、誰であろうと無理だろう
要は程度の問題だな
できるなら、八割は胸の奥底に静まらせたい
それも無理なら
山中深く入り込んで仙人になることだな
五分、六分の短編映画もいいもんだな
人の心の凝縮されたものが
花の香りのように
密やかに浮き上がってくる
「おめでとう」・・・「ありがとう」
「好き」・・・「大好き」
「じゃあ」・・・「あしたまた」
「あの〜」・・・「ん?」
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僕は、深夜に5〜6分のラジオをやるのが夢だった
手紙を読むように語り
好きな歌を一曲かける
そして・・・
「おやすみなさい」
「また、明晩」
・・・母は四つの僕を残して世を去った。
若く美しい母だったそうです。・・・
母よ
僕は尋ねる
耳の奥に残るあなたの声を
あなたが世に在られた最後の日
幼い僕を呼ばれたであろう最後の声を
三半規管よ
耳の奥に住む巻貝よ
母のいまはのその声を返へせ
堀口大学
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堀口大学は四歳か
僕は三歳
父は無言でこの詩集を
僕に手渡した
街の○○屋さんが消えてゆく
どんどんと消えてゆく
時代の流れ?
跡継ぎ問題?
大型店、チェーン店時代?
バブル前時代を生きた人たちが左団扇で大笑い
まともに大波を食らった人たちが這いつくばい
政治家は権力闘争に明け暮れて
僕は波間をすり抜ける木の葉船
忘れしゃんすな
テレビに映し出される港風景、何気なく観てしまうが、僕にはそれなりの感傷も
ある。僕が幼いころ、生まれ故郷の隠岐の島は、まだまだ岸壁施設が整ってはおら
ず、大型船は湾に入ってくると、その真ん中あたりで停まり、陸から迎えの手漕ぎ
船が行って、客と荷物を降ろすという状態だった。父のすぐ下の弟の叔父さんが、
その回漕店を営んでいて、僕の兄も一時期お世話になった。
昼間や海が凪いでいる時は、ちょっとした風物詩的趣があったのだが、深夜や時
化の時はかなりの難行であったようだ。稀に人や荷物が海中に落ちてしまったとい
う話も聞いたことがある。夜中着の場合は、湾に入ってきたところでボーー!と
汽笛が鳴って、仮寝の布団から抜け出して作業に取り掛かると聞かされた。
そうした時代の十数年後、僕自身がそれに関連した波止場づくりの仕事で帰郷
するとは思いもしなかった。これも縁というものだろう。超大型船ですら接岸できる
ほどに整った港町に、もう昔の面影はない。船が離れるとき、隠岐民謡の「しげさ
節」が流れ、別れのテープが舞う光景は、昔では考えられないことだ。
♪忘れしゃんすな 西郷の港 港の帆影が 主さん恋しいと 泣いている・・・
教 師
僕には運命づけられたものがあった。それは「教師」。父も、母側の叔父二人も叔母も従兄も・・・ほとんどが先生一家だった。我が家では、その筆頭だった兄が心の病で脱落してしまったので、当然のように僕にその順番が回ってきた。
中学校入学の時、同じ学校に父が赴任してきて、僕は何とも息苦しい三年間を過ごすことになってしまった。高校入試の願書提出の時、僕が「工業高校、建築科」を志望したら、担任が「とんでもない!君は松江南高校へ行って、教育大学に進まなければ!」と言って拒否された。先生方や同級生たちの目があるから、優等生を演じる自分がいて、中学の三年間は精神的監獄みたいなものだった。
高校入試はかなりの高得点で、県下でも何十番とかで合格した。知る立場にあった父がそう教えてくれた。
しかし、人生の流転とはまさにこのことで、それからの七年間、怒涛の荒波が待ち構えていた。