ゼネレーションギャップ……これはいつの時代でも避けがたい。
最近では、その世代格差の幅もどんどん縮まって、十歳も違えばもう落差を感じる。
もちろんプラス面もある。いい刺激を受けることも多々あるのだから……。
異性間でも、不思議なことに一回りも違う世代に刺激を受けたり教えられたりする
ことも少なくない。
ただ言えることは、歌の世界ではもう付いて行けない。
全部が全部、同じような歌に聞こえてしまう。
それは僕たちが若かったころの親世代の感想と一緒なんだろう。
懐メロのコンサートにファンが殺到するのも分かるような気がする。
自身がそうなんだから……。
歌は世に連れ、世は歌に連れ………。

快晴
秋らしい澄みきった青空
美味しい…と実感する空気
生まれ故郷の家でなら
縁側に寝転んで
座布団を枕代わりにして……
果てしない夢の中に溶け込んで……
それもまたはるかに遠い 夢のまた夢
だれが言った?
「故郷は遠くに在りて思うもの」
人生に闘い……破れて……
いや、破れたわけではないが
何に幻滅しているんだろう?
こんなはずではなかった……と
これがそうだと思えない……自分
何かをやり残している
何かに挑戦しきれないでいる
やはり 物 ではない
やはり 心 なんだ……と
その 心 の向け処に彷徨い続けているんだろう
心の奥深い部分で到達しているのに
躊躇する自分
立ち止まる自分
後ろを向いてしまう自分
さあ、もう一度
回れ右!をしてごらんなさい
この澄みきった青空さんに
笑われますよ
自称……万年青年さん

人の心を奪うということは、罪深いことだ。
己にとっては嬉しいことでも、誰かさんにとっては、
憎しみや悲しみの種になるのだから。
勿論、逆恨みもある。誤解もある。
それらの様々な渦に巻き込まれて、
溺れて、踠いて、沈んで、そしてしぶとく浮かび上がって……。
今日こうして何食わぬ顔で生きている。
心の襞に染み込んだ~返り血とも言うべき代物は、
拭い去ろうとしても根絶は出来やしない。
幸か不幸か、あちらの側になった経験は皆無だが、
一歩間違えば、事件に巻き込まれかねない。
自分のソレは〖ままごと〗のようなものだ。
助け舟に入って体験した、きわどいストーリーだ。
狂人に刃物は付き物だが、目に見えない心の刃は防ぎ用が無い。
場面を換え、方法を練りに練られて喰らった一撃は、
大袈裟ではなくて、僕を社会的に半殺しにした。

♪果てしない大空と 広い大地のその中で
いつの日か幸せを 自分の腕でつかむよう
歩き出そう 明日の日に
振り返るには まだ若い
ふきすさぶ 北風に
とばされぬよう とばぬよう
こごえた両手に 息をふきかけて
しばれた体を あたためて
生きるのが つらいとか
苦しいだとか 言う前に
野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ

♪野に咲く花のように
風に吹かれて
野に咲く花のように
人を爽やかにして
そんな風に僕たちも
生きてゆけたらすばらしい
時には長い人生も
トンネル抜ければ夏の海
そんな時こそ野の花の
けなげな心を知るのです
野に咲く花のように
雨にうたれて
野に咲く花のように
人を和やかにして
そんな風に僕たちも
生きてゆけたらすばらしい
時にはつらい人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ野の花の
けなげな心を知るのです
批判を覚悟で言ってみれば
〈アホの長生き 娑婆塞ぎ〉
痴呆の人がこれだけ蔓延してくると
老々介護どころか、孫が祖父母の介護をするという話も多々聞くわけで
もちろんそれぞれの立場としての責任や良心は理解できる
美談として耳に入ることも珍しくない
それなりの施設に預けられる家庭は幸せの部類だろう
問題はそれが出来ない環境にある家庭だ
いよいよ極まって、事件となる例も珍しくない
これは僕なりの空想(妄想)だが……
いつか此処で書いた〈象〉のように
死期を悟ったら……独り静かに群れ(家庭)を離れる存在でありたい
ところが人間様には、それが赦されない……悲しいかな
アフリカのサバンナで生きてるわけじゃないんだから
植村直己氏的なのも良し(彼は死にに行ったわけではないが)
いずれにしてもボケてしまってからでは、それも夢のまた夢というわけだ
皮肉ではなくて〈アホの長生き 娑婆塞ぎ〉になってしまう
その反面、幼子のように可愛らしくなって逝ったおばあちゃんも知っている
死に方の手本のような人だった
死は誰にでも必ずやってくる
「私は誰? あなたは誰?」とならないような現実を生きなくてはならない
〖臨終のことを前に習ひて 後に他事を学ぶべし〗