「瑞々しい欅の若葉を透いた光が・・・」
古びた木造校舎の中学校の教室で
先生に「渡部、読んでみろ」と言われ
僕は国語の教科書の巻頭の詩を読み始めた
窓からは明るい陽光が差し込み
教室の暗い部分とのコントラストが鮮やかだった
小学生時代、放送部だったこともあって、朗読は得意だった
誰に教えてもらったのだろうか・・・
眼は数行先を追い、言葉は逆の行いをしていた
中野重治の詩を読み終えた時
先生が言った
「うん、「間」がいいな・・・うん・・・」
僕は、窓の外のグランド横の緑の木々をじっと見ていた
「きみの夢を見たんだ」
『どんな夢?』
僕は、はぐらかす意味ではなくて、その問いには答えなかった。
『ねぇ〜、どんな夢?』
再度せがまれたが、やはり僕は黙っていた。
「願望なのかなぁ?」
僕は、独り言のように呟いた。
何かを期待してたのか、的はずれと思ったのか、
それ以上、彼女が問いかけることはなかった。
僕はただ・・・
夢の中身を言葉にしてしまうと、すべてが消えてしまうような気がしていた。
慣れぬ野良仕事などしなければ良かったのに・・・
でも母の性格では、やり抜こうとしたんだろうな。
破傷風・・・間に合わなかった血清。
離れ小島の宿命。
様々な悪運が女の厄年に凝縮された。
まだ僕は成人前だったかな?
広島にいたころ、夜逃げを手伝ったことがある。
とても勝ち気な奥さんと、気弱そうだが男前の旦那、そして小学生の男の子。
「晩御飯でも食べていく?」と言われたが、いつもと雰囲気が違う。
それにご飯と言われたがそれらしきものはなく、インスタントラーメンだった。
訝しがる僕に奥さんが切り出した。
「実はね・・・」
詳しい内容は言われなかったが、その夜のうちに家を出ると言われた。
そして「できれば手伝ってほしい」と。
僕はトラックに梱包なしの、家財道具を積めるだけ積んで、運転をした。
小一時間くらい離れた場所だっただろうか・・・。
その夜、電気コタツに足を突っ込んで、四人で寝た記憶がある。
あの家族はどうしているのだろうか?
気丈な奥さんの目に光るものがあったのを、今でも覚えている。
まるで子供の飛び出しのように
きみは前しか見ないで
自転車をこいだ
僕はちょっとしたいたずら心で
家の陰に隠れていたのだが
あまりのスピードに
その先の出来事が怖くなって
後ろから声をかけてしまった
急ブレーキをかけた君は
照れたような怖いような
複雑な表情で僕を睨んだ
二十歳のエチュード
父よさらば
兄よ姉よ弟よさらば
かわいそうな継母よさらば
すべてのよき先生方よさらば
そして我を愛してくれた女たちよさらば
今我は母の心のみを抱いてただひたすら
放浪の旅へとたたん
すべての関係者関係事よ
わが胸の中から去ってくれ、お願いだ
一個の生物体はどこへ行く
暗い夜空の彼方へと流れ星となって
飛んで行け
見えなくなっても飛んで行け
「自画像」
彼は或る家の長男である。背も高いがずんぐりしているので相撲取りのように不格好な体つきだ。その上歩く時はまるで老人のようによちよちと、おまけにツンとすまして歩く。よちよちして歩くのは小学校の頃足を折ったせいだ。彼は友達に出会うと、必ずニヤリと何だか訳の分からない笑いをうかべる。おそらく自分ではあいきょうのいい顔をしているつもりだろう。
彼が小学校の頃足を折ったというのは、さんざんあばれたあげくの事で、彼の小学校時のあばれんぼうずは有名だった。教官室に呼びつけられた数えきれないくらいだが又成績の方も非常に良かった。でも彼の今の成績ときたらさっぱりだめだ。おそらくまだ昔の夢を見て、「自分も頭はいいのだから少しでもやればいくらでもよくなる」などと自慢にもならないことを考えて、一向に勉強しようとしない。まあそのうち後悔する時がくるだろう。
彼は人のいうことはなかなか通さない。一応は「ふんふん」と聞いているが、実は心の中では「フン」と冷笑している。そのくせ自分はろくな話らしい話も出来ないのだからいい気なものだ。
彼はまた、一面非常に気の弱いところがある。だから一人で買い物に行くことはめったにない。行ったとしても店に女の人がいるとなんだかはずかしいような気がして、いつまでももじもじしている。それに、同じ学級の女子や先生が向こうからやってくると、別段用のない横丁へはいって、通り過ぎると出てきてまたツンとすまして歩く。全く臆病なやつだ。これは彼自身十分認めているところだ。でも家にいるときは大変いばっているのだから妹や弟にもとかくきらわれる。
父はひとがよくて、というよりあきれるほどの無口で何をいってもめったに怒ったことがない。だから正に彼の天下である。外での弱さを家の中で強く出すいわゆる内弁慶だ。そのくせ父が一番こわいというから不思議だ。
まあ彼のいいところといったら人のいいこと、飯を炊くのがうまいこと、また彼には似合わぬ素晴らしい闘志をもっていることだ。でもこれはよほど自分が困らないと出てこない。まあこれ位のものだろうと彼自身は思っているらしい。
彼は海辺に育ったせいか非常に短気で、腹が立つとやたらにあらい言葉をあびせる。一寸気にくわんところがあるとその人を徹底的に嫌う。だから反感をかうことが多い。でも反面涙もろいのでそういう人にやつあたりした後でいつも淋しい気持ちになるのが常だ。
彼は人が何か聞くとそれに対して素直に答えることがない。いつも人を皮肉ったような答え方をする。どうもこれは慢性のものrたしい。
彼は退屈するとラジオでまんざいや落語を聞いて一人でケラケラ笑っている。これを妹や弟が見て「気が狂っておらせんか?」などとかまうのでたちまち彼はふんがいして「何ッ」と大きな声でどなる。これも内弁慶のあらわれだ。そんあものを聞いている時間があったら宿題の一つでもしたらよさそうなものだのにめったに宿題などやったことがない。大人になっても大した人物にはなるまい。あのカビの生えたような頭でいったい彼はいつも何を考えているのであろうか。彼はまったくとりとめのない実に奇怪な人物である。彼は今年十六才と三カ月の青年のような少年である。終わり。
兄・喜久 作
隆夫さんの思い出
隆夫さんが知夫へ帰ってきたのは、たしか昭和十八年の秋であった。その頃私は隣島の海士村に勤務していて、郷里知夫にはいなかったはずだが、記憶の糸をたぐり寄せると・・・
その夏私は自分の不注意から満二才の寛典を失った。私たち一家四人は御波小学校の狭い宿直室で暮らしていたが、寛典は生まれつき皮膚が弱かったのか全身湿疹で、包帯だらけだった。(頭に包帯を巻いた小さい身体が、板間の控室で竹刀をふりまわしていた姿が目に浮かぶ)ある人がこんな子は潮につけたらと言ったのを、まにうけたのが災いのもとだった。ある日一家で近くの海岸へ水浴に行った。その直後寛典はおかしくなり、家内が夜中に「お父さんはや起きて」と騒ぎ出した。急きょ知夫へ連れかえり(近くに医者がいなかったから)すぐまた別府の勝部医院へ便船で運んだが、さすがの名医も首を傾げるばかり、絶望は目に見えていた。「とうちゃん、いかあやいかあや」とせがむ寛典を背負って、自宅の周りの坂道を行き来したのが、痛恨の思いとともに蘇ってくる。八月二十二日あえなく他界、心ばかりの葬儀をすませた。
前後は忘れたが、その九月から母校を会場とする文部省主催教員再教育の三か月研究科入学通知があり、暗い悲しみの中で支度をしていたが、家内の様子がどうもおかしい。愛児死別でたいそうやつれているようなので、このまま農事に忙しい両親のもとへ残しておいたら大変なことになりそうだという不安にかられた、五才の長男もろとも三か月いっしょに松江に連れだすことにし、家内の従姉の山田テフさんに頼んで、法吉村国屋の農家の離れを借りることができた。
その年の秋は大水害があり、水につかった黒田の畦道を当時の法吉役場へ米穀通帳などの手続きに行ったこと、十一月のおいみさんに長男の喜久を肩車にして詣ったこと、幸子(家内)がテフさんと従姉妹どうし付近の山を薪拾いに歩き回ったことなどそのほかいろいろ思い出される。そして全く本人さえも初めのころ気がつかなかったのだが、次女の素子が腹の中にいて、三か月の間にみるみるふくれあがった。
隆夫さんが知夫に帰ったのはたぶんその松江に出るまでの短期間うちにいた時にちがいないと思うのだが、明治大学を出て、就職直後だったはずだ。後から思い合わせると、姉二人(島崎の伊佐さんと幸子)いる、父母の生まれ故郷へそれとなく別れを告げに来たにちがいない。ごくわずか二、三日しかいなかったと思うのだが、その決意を秘めて、後で海軍志願したと聞いて、あっと驚いた記憶がある。隆夫さんと軍人、およそ考えられない取り合わせだった。そしてまさか二年後戦死などと思いもよらなかったから。
隆夫さんは見るからにおとなしい、まじめな性格だった。兄弟姉妹みなそうであるが、隆夫さんがまさか自ら志願して軍人になろうとは夢にも思われなかった。谷川のお父さんはすでに亡くなっていたが、この、平時であれば考えられもしない二十歳の若者(ほんとに若い!私たちもそうだったが)を戦場へ駆り立てたものは何であったか。本土死守、皇国護持、一人で優秀な飛行機乗りがほしい、純真無垢な若者はただひたすらに、この父母の国、最愛のはらからの国を鬼畜米英の来週から護らざればという一念のほか何ものもなかったに違いないのだ。
それからの〜母ハツさんの半狂乱とも思われる飛行場巡りが始まる。名古屋ー美保基地、あのころのお母さんの心事、「軍国の母」ということばはあるが、とても簡単に語りつくせるものではない。
隆夫さんは美声だった。稀にみる美声だった。今生きながらえてのど自慢にでも出場したら、ぜったい金賞まちがいなしの美声だった。私たちの結婚の里帰りの晩餐祝宴で歌った学生服姿の美声は(なんの歌だったか)終生耳の奥にはりついてはなれない。
(平成六年十月二十四日 渡部一夫)
※隆夫叔父は昭和二十年四月七日 特攻隊で戦死
軽やかに半音を切り替えるハーモニカ演奏〜クシコスの郵便馬車
体育館に響き渡る〜「nice shoot!」の声
防波堤に翻るスカート
鮮やかなコバルトブルーのシャツ
薄暗い跨線橋下を通る爽やかな風
見舞いの便箋に添えられた数枚の顔写真
バイク事故の体への献身の看護
別れの時の頬へのくちづけ
ペンネームで寄せられた何通もの手紙
「どうしてそんなに苦しい方へばかり行くの?」
離島で眺めた満天の星空
遠路はるばるやって来た湖畔の宿の別れ
「結婚しました」の短い文面の葉書と代わった苗字
流れるように達筆な文字
勝ち気で颯爽と歩くミニスカート
「思い出に・・・」と差し出すものは受け止められず
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巡る巡る〜時代は巡る
間借りであれ、アパートであれ、
借家であれ、持ち家であれ
家(部屋)は存在したが
家庭がなかった。
温もりがなかった。
何よりも先が見えなかった。
今、ぼくは
家庭の太陽なんだろうか
家の柱なんだろうか
ひょっとして僕も
同じことをしてるんじゃなかろうか。