写真の中では、いつも笑顔のきみだけど・・・
今は、もういない
同期の仲間〜五人
あれからすぐバラバラになってしまったね
時の悪戯?
ボタンの掛け違い?
直接の原因が何であれ
きみは蘇らない
ここまで生き抜いたきみが見たかった
何よりも恩返しをしたかった
弱虫、泣き虫(あきおくん)の
今を見て欲しかった
カラオケの前奏が始まったとき、僕はあなたの携帯番号にONして、
胸のポケットに入れた。そして歌い始めたその歌は、
あなたへの想いそのものだった。
何がそうさせたのか・・・
臆病者の僕にしては、大胆な行動だった。
いや、想いを歌に託したのは、やはり僕は臆病だったのかもしれない。
戦友・・・相棒・・・知己・・・
軽く浮かれたステージを超えた強烈な心の繋がりが、そうさせた。
眼には見えなくても
強く太いラインは厳然と目の前にある。
超える・・・超えない・・・その葛藤の中で
燃え尽きて・・・昇華して・・・
その結晶は純化する。
君は、今・・・何処にいて何を思っていますか?
僕は、今・・・亡霊のような想い出の中で
吸う息を貰い、明日のいのちを確認する。
そんな場面をいくつ数えた?
水の都は各地にあるが、故郷・松江もその名にふさわしい水郷都市だ。
宍道湖、嫁ケ島、松江大橋・・・そこに上がる花火は絶景だ!
糊の効いた浴衣を着せられて、慣れない下駄を履かされて・・・
父に手を引かれて見物に行った。
横に母がいないのが寂しい。
母は北松江の生家で、あの花火を楽しんだのだろうか?
横田先生は、僕が叔父の仕事の手伝いで、郷里・隠岐島で仕事をしていた時に巡り合った大先生だった。父が近くの村の中学校の校長をしていた頃の繋がりだと記憶している。
先生の住んでおられた小さな漁村の防波堤工事に行ったわけだが、仕事休みの日に御宅へお邪魔した時に、この「ともる-隠岐の四季ー」の本をいただいた。
二十歳そこそこの若造に、優しく穏やかに接してくださった。大自然の中で悠々と生きておられる先生を、その時にはそれほどの実感を持てなかった自分が恥ずかしい。
高校時代、精神的に病んでいたころの話。僕はある宗教施設から登校していたのだが、まったく授業に集中できず、徐々に校門をくぐることが億劫になっていった。
そんな時は、学校の近くにある叔父の家に避難(?)した。叔父叔母はもちろん仕事で留守、祖母が一人でいた。祖母は不登校のことは一言も責めずに迎え入れてくれた。これは救いだった。
祖母はいつものように「あきお、カルタしょうや」と僕を誘った。花札である。
「手七の場六」と言って始めた。祖母は形勢が悪くなると、いつもイカさまをした。僕にはそれが分かるのだが、そのまま続けて「あ〜、また負けてしまった〜」と下手な演技をした。
しかし、いま思えば、祖母はいろいろ慮ってそんなフリをしたのではないかと思う。もしあの避難場所がなかったら、僕の人生はどう転んでいたか分からない。
D百貨店のバイト仲間のランボーことM君は、呉服売り場の彼女にアタックした
が、まったく相手にもされず、超落ち込んでしまった。目も虚ろで抜け殻のよう
だった。それは真冬の厳しい寒さのことだったのだが・・・、彼は近くの小高い山
に登り、雪の中で凍死寸前のところまで行ったらしい。そしてギリギリのところで
彼は煙草用に持っていたマッチに火を点け、それを手の甲に押し付けたらしい。
そこで我に返りやっとのこと下山したらしい。(後々の彼の話)
僕の部屋に転がり込んでいた彼は、ある日寝袋一つを抱えて「ギリシャに
行ってくるわ」と言い残して、ホントに出ていってしまった。
ギリシャ?どこでどう繋がっているのか、僕には全く理解できなかった。
数日後、彼からハガキが届いた。「今、横浜。明日、ギリシャ船に乗る」と
だけ書かれていた。
彼がひょこっと僕の部屋に帰ってきたのは、それから一年後のことだった。
〇幼少期からずっと「笑顔良しのあきちゃん」と呼ばれていた。
でも、そのピエロ性に気付いてくれたのは貴女だけでした。
〇高校の卒業式、保護者として来てくれたのは貴女でした。
姉のような・・・母のような・・・恋人のような・・・
〇16歳、居場所を告げた家出は家出と言えるのだろうか?
〇二人で初めて観た映画「卒業」
激しい呼び水となった。