マグマが溜まりに溜まって、爆発寸前なんだけど、
妙なもんで、どっかにエネルギーの抜け穴があって
そこに流れ込んだものだから、爆発は回避されたわけ・・・。
その事には、自分の中でも賛否両論あるんだけど
大人の流儀というか、俺も歳をとったものだといううか
大きな流れには身を任す的な自分がいる。
人の噂に一々反応してたら、幾つからだ有っても足らないけど
何て言うんだろう・・・
どこか・・・「糞喰らえ!」的な自分が居る。
大人社会は、何でもかんでも口にするわけではないし
むしろ当人のいないところで噂もし、貶しもするわけで・・・
しかし、いつものことながら・・・
言ってしまった後の、あの空虚感ったらありゃしない。
でも逆に、言わなかったときの消化不良感を想像した時
ああやはり吐き出しておいて良かったと思う。
それにしても、いわゆる「名聞き役」がいなくなったものだな。
僕はその存在足り得ると思ってはいるのだが・・・。
一度ならず
逃げ出した経験を
持つことは
悪いことではない
伊集院 静
僕は、父から「お前は脱出の名人だな」と言われたほど、何度となく逃げ出しているが、不義理、無礼の謗りは受けようとも、確かにそれが自身の肥やしになったことは否定できない。
むしろその決行が無かった時のことを考える方が怖い。それは高じて癖のようになっているが、さすがに家族があり、周囲の関わりのある今では、心のブレーキを踏む。
片手落ちは赦されない、いや、赦さない!
それこそが僕の意思決定ですぞ。
身内びいきや判官びいきは赦さない!
それにしても、典型的だな・・・見事なくらいに
僕がシュミレーションするまでもなく
答えは明白だ
結論!○○につける薬は無い
天誅!
「好き」の対義語は「嫌い」ではなくて
「無関心」「無視」であると聞かされて
自分の中途半端さに嫌気がさした。
相手に「改心」や「改良」の余地があるのなら別問題だが
まったくそれが期待できないとなれば
無視、無関心に転向すべきであろう。
決めた!決めた!
オマエと道連れに・・・
怒りを覚えた時
一呼吸置いてみる
更には
一日置いてみる
そうすれば
違った角度からの
冷静な視線が
生まれてくるものだ
人間、居場所が変れば、俄然隠れた才能が開花することがある。
スポーツの世界に限らず、仕事や仲間づきあいにおいてすら・・・。
<水を得た魚>の表現が当てはまるかどうかはわからないけれども、これまで
抑制され続けた世界から解放されて、活き活きと動き回っている人がいる。
これまでの障害物?を云々するよりも、先にある光に向って進むという選択肢は
正しかったと思う。
さて、わが身に置き換えて考えた時、いわゆる障害物に立ち向かい続けるのが
良いのか悪いのか?彼のようにハッキリ訣別という選択が良いのか悪いのか?
もう一人の自分を見つめ直す時、しゃがみ込んで、エネルギーを溜めこんで、
ジャンピングアップの機会を伺う姿に、共鳴する自分がいる。
人生は面白い
楽あり 苦あり
山あり 谷あり
はたまた どん底あり
千春の歌ではないけれど
力のかぎり生きてやれ
まさに 野に咲く花のように
人間、この世で会うべき人
会わなければならない人には
必ず会う…と
そう教えられれば
安易に見過ごせない
簡単には済まされない
見つめ直そう
注視しよう
心の襞を敏感にして
本の帯に、「自分と妻」の死後の出版を条件に・・・と書かれているように、まさしく赤裸々な内容で、どちらが存命中でも出版は難しかったであろうと、この僕でさえ思う。
読みながら、まったくスケールや舞台や異性の度量などの違いはあれど、わが身にもそれらと酷似した体験があったなと思いながら読み進んだ。僕も、ここでそれなりに書いてはきたつもりだが、やはり存命中のひともあり、自分も生きているとなれば、その中身には当然ながら限度がある。
結論付けるほどのことではないが、そうした体験が自分と言う「男」を形成した貴重な必要欠くべからざる源であることは断言できる。
決めつけて、断定的な物言いをする。
あたかもその言葉の対象者が、それだけの人であるかのように・・・
それは僕にはできないことだ。
洞察力、観察力が違うのか?
好みの違いなのか?
あの人と違って、僕は、あなたの弁護派だ。
というより、理解派だと言った方がいいのかな。
あの人には見えない〜あなたの輝きが、僕には見える。