長たる者は 嘆くでない
長たる者は 涙を見せるでない
長たる者は 愚痴をこぼすでない
長たる者は ひたすら忍ぶべし
長たる者は 夢の中で息をする
たとえ貧しき一軒のあばら家の主であろうとも
心の旅に出よう
行くあてのない旅へ
オロオロと彷徨いながら歩き続けよう
この杖はありがたい
女性たちの泪の結晶だから
この杖は決して折れはしない
女性たちの母性と純情の塊りだから
『修行とは 苦労を楽しむことなり』 (日扇聖人)
僕の人生の師匠が、父に僕のことを話されたとき、この言葉を用いられたと
後になって聞かされた。「秋夫君は、ずいぶん苦労をしたみたいだけど、そのこと
を口にはしないし、その苦労が身に付いているというか、何とも言えないにじみ出
て来るものがありますね。」と言われたとか・・・。
もちろん僕にはそれほどまでの意識があるわけでもないし、楽しむなんて言う
領域にも達してはいないのだが、ただ、彼女に「どうしてそんなに苦しい方へ苦し
い方へ行くの?」と言わしめた内容が、それに通じるところはあるかもしれない。
二十歳そこそこで、そこまで達観していたわけではないけれども、このままでは
甘え人間に落ちてしまうという漠然とした意識があったことは確かだろう。
人は失うことによって何かを得る。喪失感が大きければ大きいほど、そこから
生まれる希望の光は輝きを増す。大袈裟に言えば、それが己の血となり肉となり
何とも言えない人間の輝きを形成してゆく。これは自分から見て、人生を安易に
捉えて、近道を選んだ人間には掴み得ない宝物だと確信して言えることだ。
いい年になって、それでもまだ青春時代のような黒い渦の中にいる。でも、また
あの若いころのように、「これが僕に課せられた試練なんだ」と受け止める自分が
いる。「いつも青春、いつも青春、いつも心の流離い」
人生の晩年は、あくまでも積極的に! 非常に誤解のあるコトバですが、
ハッタリの一・二歩手前まで出てゆくくらいの積極性をもつ必要がある。
気魄というだけでは、まだキレイ事に過ぎて、少々物足りないのです。
気魄とハッタリの中間を、素っ裸で突き抜けるというくらいでないと、
今日の時代では流されてしまう。
森 信三
知己を失えば
呆然自失の世界
魂の抜け殻
それでもなお生き続けてこそ
知己の知己たる所以なのか
恩師が亡くなられて、自分でも思い出せないくらいに、呆然としていたらしい。
それほどにショックは大きかった。そして改めて、師の偉大さを思い知った。僕と言う人間をシトレートに受け止めて下さった。そして時に、まるで同世代であるかのように酒を飲み交わしてくださった。
さて、恩返しは何なのか?どうすべきなのか?その答えが重い。
無言の別れが
この時代の象徴であるかのように
あなたは忽然と消え去った
まさしく 足跡も残さずに
言葉とは何ですか?
礼儀とは何ですか?
それらさえも超越するものとは 何ですか?
裏を返せば
自分も同じじゃないか
他人様の慮りを期待する利己の精神
いやいや
それ以上の何かかが
あなたの身に起こっているに違いない
昔とは違った意味で
生きにくい時代の到来だ
最大の金儲けは…健康
健康なくして、何事も始まらない
最大の損失は…病気
あらゆる可能性を奪い去り、消失させる
であるならば、肝心なことは日頃の養生、鍛練
現代では、腹六分目と言われているらしい
三日間断食が良いとも
週一の休肝日も…
胸のスケッチブックに
4Bの鉛筆で
太く、強いラインを引く
ここは縦線でなくてはダメなんだ
左と右
つまりは、さっきまでの昨日、過去と
これからの明日、未来
人間関係リセット症候群の言葉が浮かぶ
今に始まったことじゃない
僕はずっとずっと前から繰り返してきたさ
後から非難の弓矢が飛んでくる
毒矢であろうと何であろうと
僕の鎧は射貫けない
書いてさえ虚しいのに、書かなかったら、もっと虚しい。つまり虚しさも感じない
ほどにむなしい晩年になる。自分の書いたものを、いつまでも握って出さずにいる
と、精神的な便秘になる。それ故次への展開がきかない。ところが出すとかえって
執着がなくなる。だから思い切って出すんですね。たとえ人からどう言われようと
かまわぬじゃありませんか。結局は自己の執着を断つために出すんですから・・。
森 信三
船の別れは寂しすぎる
殊更にテープの役割が物悲しい
五本も十本も持った人とは離れて
僕は船の尻の方へ移動した
一本のテープの先のひとりの人
まるで永遠の別れでもあるかのように
悲しい顔をしている
目元までは確認できないが泣き顔には間違いない
切れないように注意して
僕はテープの弛みを無くして
きゅっきゅっと引っ張ってみる
同じ反応が伝わってくる
何の言葉を乗せたのやら・・・
同じ想いとの確信を持って
僕は両手を頭の上で思いっきり振る
テープは切れても心の糸は切れはしない