『・・・御義口伝に云く四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり』
宝塔は、四つの面を持っていた。それは生老病死という免れ得ない人間苦であった。この四つの最大の苦悩によって、宝塔はさらに荘厳されていくという意味である。私は、妙なご託を並べているのではない。ここで鼻白む人は、生涯、箸にも棒にもかからぬ文章、あるいは小説を書いていればいい。だが、四相を以て我等が一身の塔を荘厳することに勇気と歓びを得れば、そして、我々一人ひとりの生命が、途方もない巨大な宝塔であることを認識すれば、石ころも枯れた花も犬の毛一本をも縁にして、文学は無限のドラマを創造し、人間の幸福のために動きだすだろう。
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宮本 輝
弓(刀)折れ、矢尽きる
焼け石に水
日暮れて、途遠し
雄弁は銀、沈黙は金
窮すれば通ず
九死に一生を得る
人は落ち目が大事
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
老骨に鞭打つ
恩を仇で返す
石に立つ矢
喉元過ぎれば熱さを忘れる
背水の陣
身から出た錆
正直は一生の宝
学生だったころ、私は、書店の文庫の棚の前で随分長い時間たっていた。その時間を合計すれば、何十日分にも相当しそうである。「あれを読もう」と最初から目星をつけて文庫本の並ぶ棚に歩み寄ったことは、ほとんどない。何を読もうかと背表紙を眺め、手に取り、書き出しの数行を読み、解説に目をとおし、ためらってためらって、別の文庫本に目を移す。そのときの、何を読もうかと迷う私の目は、おそらく青春時代における最も気概と熱気と冒険心に満ちたものであったろう。私という汚れた人間が、唯一、澄んだ目を輝かせる場所は、文庫本の棚の前であった。私は、それを思うと、貧しかった当時の、いろんないやな情景などどこかに押しやって、ああ、贅沢な青春だったなと感謝する。文庫本というものがなければ、私は世界の名作に触れることなく、何が真のミステリーであるかも知らず、何を人生の不思議言うのかも学ばず、猥雑な大人の群れに、よろよろと加わって行ったに違いない。(1986.7)
宮本 輝