世の中は、目に映らない場所で、誰かが誰かのためにひたむきに何かをしている
のだ。目を少し大きく見開けば、そんなことであふれている。
今は目に見えずとも、のちにそれを知り感謝することもあるのだろう。
己のしあわせだけのために生きるのは卑しいと私は思う。
伊集院 静
哲学という学問は、元来教えることのできない学問です。もしこれを教え得るかに考えるとしたら、それは哲学の教師ではあっても、真の哲学者ではないのです。ところがわが国の大学では、色々の哲学説の紹介でもしていれば、それで一かどの「哲学者」として適用し、自ら哲学者と僭称して、あえて恥じることを知らない・・わが国の学界の現状は、まだこの程度の段階でしかないのです。
森 信三
「いいか、失敗、シクジリなんて毎度のことだと思っていなさい。倒れれば、打ちのめされたら、起き上がればいいんだ。そうしてわかったことのほうが、おまえの身に付くはずだ。大切なのは、倒れても、打ちのめされても、もう一度、歩き出す力と覚悟を、その身体の中に養っておくことだ」
伊集院 静
親も子も存命で、それが当たり前のように生きている家族は、深い意味で、はたして幸せと言えるのだろうか??ごく身近な所で、骨肉の争いを繰り広げている家族もいる。その情景を外野席から見ていると、意味深な溜息が出る。
僕は、母親の温もりも知らないし、父親や兄姉と暮らした年月もわずかだけれど、僕の心の中には人一倍、彼らは生きているさ。常に、そう常に、彼らから見つめられ続けていることを、もっと言えば、護られていることを実感して生きている。
だから、この娑婆の辛苦は「何をこれしき!」と思って生き抜いてきたさ。他人様が言うほど「修業とは、苦労を楽しむことなり」の実践者ではないが、それに共通するような生き方をしてきたことは事実だ。そしてその内奥には、先述の<母の守り>が厳然と存在していたからであり、父、母、兄姉は、僕と共存し続けているのである。
悲しいかな、人間は失わないと、その有難みを掴めない。
「いいか、失敗、シクジリなんて毎度のことだと思っていなさい。倒れれば、
打ちのめされたら、起き上がればいいんだ。そうしてわかったことのほうが、
おまえの身に付くはずだ。大切なのは、倒れても、打ちのめされても、もう一度
歩き出す力と覚悟を、その身体の中に養っておくことだ」
伊集院 静
「蘊蓄」という言葉があるが、あれも大嫌いである。
品性の欠けらもない。
「△△って何のことだかわかりますか?」
「××がなぜああなるか知ってますか?」
という話し方をする人がいる。
私の周囲にはほとんどいない。それは、そういう会話のやり方をすると、
私が注意するからだ。
「君、どこで覚えたかは知らぬが、そいう会話のやり方はやめなさい。訊かれた人がその答えを知らなければ、そんなことも知らないのか、と相手を試しているように聞こえるし、仮に知らないとわかって、君がその答えを出せば、まるで君が相手より物事を知っているように見える。そういう話し方は下品で傲慢にしか聞こえない」
大人の男はそれを十分知っていても、「さあ、詳しくは・・・」と応えねばならぬ時が多々あるものだ。それを待ってましたとばかり喋り出すのはただのガキで、バカである。
伊集院 静
「酒の味の良し悪しは、吞み手の心情にある」
この盃を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐の喩もあるぞ
「さよなら」だけが人生だ
干武陵(井伏鱒二 訳)
酒呑みにとって、吞む理由はどうでもよいのだが、そこに友との惜別が、
人生の別離があれば、その酒は文句無しに味わいが出る。酒は二級で十分。
何が大吟醸だ。わかったようなことを言いやがって、コノオタンコナス。
伊集院 静
○わかりやすい
○短い
○誠実
手紙は簡潔がいい。時候の挨拶などはなるたけ短くする。
要点だけをまず書き、あとは相手への気遣いが感じられれば、
それで十分。それ以外は無用である。
伊集院 静
一度ならず
逃げ出した経験を
持つことは
悪いことではない
伊集院 静
僕は、父から「お前は脱出の名人だな」と言われたほど、何度となく逃げ出しているが、不義理、無礼の謗りは受けようとも、確かにそれが自身の肥やしになったことは否定できない。
むしろその決行が無かった時のことを考える方が怖い。それは高じて癖のようになっているが、さすがに家族があり、周囲の関わりのある今では、心のブレーキを踏む。
人生の宝は
ドン底の中に落ちている
勝利を表す
VictoryのVは
いったん下がってから
上がっています
いったん、ドン底に落ちてから
這い上がるのが
Victoryなのです
<ひすいこたろう>