故・石原慎太郎氏の本・・・<「私」という男の生涯>
「自分と妻」の死後の出版を条件に・・・この表現からして
中身の背景は大方読み取れるわけだが・・・。
本として出版する、しない、は別として、誰であろうと生きている間は
誰にも知られたくない、触れられたくない部分は持ち合わせているわけで。
この僕でさえ、この場所には書けない事柄(秘密)も少なからず存在する。
もし書いたとしても、(保身というか自己弁護というか)多少内容を
ぼかしたり、ちょっと美化したりして書いている。
人間のシークレットゾーンというのは、そこに秘められているからこそ
価値があるわけで・・・。例えば具体的対象者がいたならば、当然
その人の尊厳は守られるべきであって・・・。
なんとも回りくどい言い方をしてしまったが、人間誰しも守り通すべき
「秘密」の一つや二つ、いや、三つや四つ・・・有る!と言うことです。

「心の時代」と言われて久しいが、
もうそれは死語となってしまったのだろうか?
そして今は何の時代と呼ぶのだろう?
でも僕的には、時代、時代に「心の友」は現れる。
その人自身が気付いているか否かは問題ではない。
此方の過剰な思い込みもあるのかも知れない。
でも、相思だと分かった時は、何増倍もの歓びになる。
これは僕の変わらぬ習性なのだろうが、
いつも遠くから見ている。
距離の問題ではない。
心は、テレパシーは、
はるかな距離を凌ぎ時空を超えて突き刺さる。
それを実感、体感した時の歓びは、何物にも代えがたい。
ひとは僕を「掴み所のない奴」と言う。
それはむしろ僕にとっては褒め言葉だ。
個としての僕は、
唯一無二の個としての対象者が存在すれば、
それで大満足なのだから。
時代は巡る、回転軸が揺さぶられる。
手を繋ごう。
心の絆を離すまい。
やがてそれは相手の心に明確な明かりを灯す。

放送部の後輩の彼女は二学年下だった。
明るくハキハキと話す快活な子だったが、
たしか心臓に病を抱えていたと記憶している。
家も近所だった。
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