「その頃の私にとって、家は単なる寝るための場所でした。若くて野心があり
ましたから。学校で生徒を教える以外にいろいろな研究会や勉強会の活動に
携わってたんです。娘の顔をまともに見ない日が殆どという有様でした。
仕事が忙しくて家庭のことを顧みないということが、さほど非難される
時代でもありませんでしたから」
「今から考えると恥ずかしいかぎりです。自分の家で何が起きているのかも
知らないで、教育者もないもんです」
「片想い」 東野圭吾
僕の幼少期、そして小学生、中学生、さらには高校生になっても
上記小説中に出てくる家庭と酷似していた。
更に言えることは、僕の場合、三歳にして実母が居なくなったことが
致命的だった。
継母はまったくもって絵に描いたような典型的な継母だった。

人間はどれくらいの周期で生まれ変わるものなのだろう?
諸説いろいろあるようだが、そもそもまたしても人間として
生まれ来れるかどうかも分からないわけで・・・。
これはまったくの受け売り話だが・・・
遠い昔殺された魂が、この世で相手と兄弟、あるいは親子として
生まれ来て、ある段階でそのはるか過去の仇を打つ・・・
という話。なんとなく話として分かる様な気がする。
現実的報道では「家庭内殺人」とか「家庭内暴力」とかの
表現になるのだろうけど。
「魂は永遠なり」ということか。
過去のブログ
↑ここでは、「心が覚えている」と書いているが
「魂が覚えている」と書くべきだったな。

まるで「ふるい」にかけられるように、人間も残るべき人が残ってくる。
それは単に僕自身のあるいは対象者の好みとも関係性があるのだろうけれど
僕はもっと奥深い部分での<接点>が「ふるい」の網の目を決定付けていると
思う。
僕的には、僕の持つ網目は何でも留まると認識しているのだが、他人様に言わせ
れば、どうも逆に大方が透かされてしまうようだ。
それを良しとするか否かは、意見の分かれるところだが、もうこの年まで来たら
今更その網目を変更のしようがない。
逆説的に言えば、僕自身にしたって、他人様の網の目をいとも簡単に透かされて
いるのだから。
それはどんな場所であれ、フォロアー数や(いいね)の数に一喜一憂するのに
似ている。数の問題ではなくて個々の質の問題だろうと言いたい。

我が家の玄関横の小さなガーデンの植物たちへの水やりが、
僕の役目の一つなのだが、あまりの酷暑続きなので、
早朝の日陰時間にすることにしている。
ある植物学者が言っていた…「雑草という名の植物はない!」と。
そう言われてみると、「この雑草め!」と容易く引っこ抜くわけには
いかないような気持ちになる。
そもそも僕自身、とれが雑草なのかも定かではないので、
つい躊躇してしまう自分がいる。
実際、しかるべき時が来たら可憐な花を咲かせたのを見て感動した
経験があるので、そう簡単には引っこ抜けなくなってきた自分だ。
家内は見分けがつくようなので、いとも簡単にヒョイヒョイと
抜き取って行くが…。
憐憫の情とでも言おうか、ちょっと可哀想な気持ちになってしまう。
稲や野菜たちの邪魔物でもないんだから、共存させてあげれば…
なんて思ってしまう。
