誤解を受けるのを恐れずに言うと、私は、ある意味で、戦争が好きだ。いや、やはり誤解を避けるために慎重を期すと、戦争について感じたり考えたりするのが好きなのである。
戦争は、生命という「生の基本手段」を危殆(きたい)に陥らせる。だがそのことによってかえって、「生の基本目的」が那辺にあるか、あるべきなのかが切実な問いとして浮かび上がってくるのである。
死を間近にしてはじめて生が輝く、という逆説から人間はついに自由になることはできないのではないか。戦争についての感受力と思考力と行動力を失った国民には、結局のところ、平和の有難味を知ることすら叶わぬのではないか。戦争という非日常性の事態に対応できないような人間は、裏を返せば、闘いと戦さの要素を含むのが日常生活であるという平凡な一事をわきまえておらず、それゆえその日常生活の中心には大きな空洞が穿たれているのではないか。
【西部 邁】
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「戦争」と大上段にふりかぶらなくても、何事もない、ある意味幸せな生活をおくっている人たちにとって、「幸福」は当たり前であり、格別喜ばしい事とは思えていないはずだ。それとは逆に、「今日、如何に生きるか」の瀬戸際的生活を送っている者にとっては、前者の人たちの当たり前が、最上の慶事であったりするのです。
こうしたギャップはそう簡単には埋まらない。彼らには届いたとしても「犬の遠吠え」的ものであり、さして気に止めるほどのことでもないのです。そこに上流、中流、下流、底流という層の枠をはめ込めば、分かりやすいのかも知れない。そしてその大方が、上流とまでは言わなくても、せめて自分は中流層に位置していると思いたがっているに、違いない。闘争の要因はここら辺に淀み潜んでいる。日本人の特性が、言い意味でも悪い意味でも事の表面化を恥じ、恐れ、我慢する。富めるものはますます富み、貧しき者はますます疲弊し崩れ落ちる。武器は持たなくても、心中に刀を抱き、銃を携え、「いざっ!」の心構えを有した人間がいかほど居るのだろうか?かってのあの若き世代の闘士たちの大半は現代の資産家達の部類に組み込まれ、また統治し支配している。どろどろとした薄暗い地下豪のなかで、眼だけがらんらんと光り輝く闘士たちの塊が見えるような気がする。そしてその横には、悲しき自死を選択した同士が横たわっている。西部氏はその裁死を選択したのだった。大方は時代に巻かれる。翻弄される。そしてこの選挙真っ只中、金切り声をあげて、住民を翻弄し、取り込み、気勢を上げる。さらば青春。甦れ青春。
平等が理想であることをやめて日常茶飯の現実になりおおせてしまうと、
むしろ平等のなかでの退屈や焦燥感がいや増してしまう。その病理を日本も
また経験するに至っている。
個性においても能力においても、不平等を背負って生きるのが人間の根本条件である。
人間の自由というものに意味が宿るとしたら、自分という人間あるいは自分たちの
国家が背負った不平等をむしろ宿命として引き受けて、その宿命といかに戦うか、
その戦いの密度こそが、自由に意味を与えるのだ。
【西部 邁】
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理想郷が到達点であるかも知れないが、それよりもむしろ
其処に至る過程の葛藤や献身の中こそに、人間の幸福度は
含有されているのではなかろうか。
民主主義であれ共産主義であれ、到達目標点が人間の幸せで
あるのなら、もうその過程の闘いの中にこそ、真の幸福感は
宿っているのではなかろうか?
◯「行って余力あらば以って文を学ぶ」
つまり学問が人生の第一義ではなくて、生きることが第一義である。
◯人間は人生のうち、何処かで一度は徹底して
「名利の念」を断ち切る修行をさせられるのがいい。
【森 信三】
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まさにその瞬間瞬間には、そんな意識が働いていたわけではなく、
懸命に生きて、足掻いて足掻いて、うんと時が経過してから、
「あぁ、あの時のあの経験が、いまの自分の肥やしになっているのだな」と
感慨深く思い出せるのです。青春真っ只中の時代であったればこそ。
大多数の同世代が、高度成長の時代の流れの中で、受かれるとまでは
言わなくても、当たり前面はして、じだいを謳歌していたわけだから…