『ねぇ、あきおくん・・・』(三つも年下のくせに彼女は僕をそう呼んだ)
「なに?」 『胸・・・痛くなったことある?』 「えっ、痛いのか?」
彼女は同じ放送部(アナウンサー)の後輩だった。宍道湖の防波堤に二人並んで腰
かけて、夕日を眺めている時だった。(ちょっと話がある)と言われてきたのだ
が・・・。致命的なくらい鈍感な僕は、彼女に促されるままに、僕の頭を彼女の大
腿部にのせて沈みかけの夕日を見ていた。彼女は僕のイガグリ頭を撫でながらちょ
っと軽くため息をついた。彼女の甘い香りと胸の鼓動が伝わってきて、微妙な息苦
しさを覚えた。その時、急に彼女は「帰ろっ!」と言って僕を起こし、スッと立ち
上がると、ヒラリとスカートを翻して地面に降りた。そして僕の手を引っ張るよう
にちょっと大股で歩き出した。このころになってやっと僕の鈍感頭はちっちゃな到
達点を見つけていた。それでもそれを言葉に出せず、握られた手をギュッと握り返
すのがやっとだった。
高校二年の夏休みが終わったとき、僕は担任のS先生に呼び出された。「こないだ親父さんと話したんだけど(そうなんや、知らなかった)おまえどうするつもりなんだ?三年生になったら、希望進路ごとのクラス編成(能力別)になるのは知ってるよな?おまえはどういうわけか入学試験の成績が高くて(失礼な!)、今のところ男子のトップ50に引っかかっている。そのクラスに付いていけるのか?」
親父がどんな説明をしたのか不明だったけど、当時すでに家を出て、ある宗教施設に入り込んでいた僕には、選択肢もくそもなかった。そもそも父が入信した宗教だったのだけれど、家庭環境の激変と勧誘(誘惑)が重なって、多感な少年は急激にそちらへと傾斜して行ったのだった。当然ながら予習復習などできるわけもなく、連日ガリ版切とか謄写版印刷とかの日々が続いていたのだ。
「就職します」の返答に「この学校にはそんなコースはない!」S先生の罵声が職員室に響き渡った。ほかの先生たちがビックリしてこちらを振り向いた。国公立、有名私立、一般私立と言ったランク付けは想像していたが、ホントに進学の意志の失せていた僕は「じゃあ・・・私立文科系でお願いします。」と答えた。しばらく考え込んでいたS先生は「そのクラスで耐えられるのか?」と言って、僕の顔を覗き込んだ。 この時点で、僕を自分と同じ教職に就かせよういう父の願望は消えた。
S先生の予言どうり、三年生一学期の始め、僕を待ち受けていた教室の空気は重かった。「なんでアイツが???」そんな無言の圧力が僕に重くのしかかってきた。唯一の救いは、小学校の時のあの彼女が〃クラスにいたこと。(もちろん接点など生まれなかったけど・・・。)自分さえこの空気に堪えれば、それはそれで気楽な雰囲気と思えなくもなかった。そして何よりの救いは、新しい担任となったK先生の存在だった。
♪クシコスの郵便馬車・・・覚えていますか?
僕はハッキリ脳裏に刻まれています。(運動会でもよく使われた曲だけど)
学芸会の時、顔の半分ぐらいはあるようなハーモニカを、半音を駆使して一生懸命吹いている姿を思い出します。曲に聴き入るというよりは、その演奏姿に見入ってしまいました。
一年生の時から卒業するまで、六年間ずっと同じクラスでしたね。そして学級委員も、必ず二学期で一緒でした。あんなにたくさんの生徒数で9クラスもあったのにね。
六年生の時かな?僕は大失態を犯してしまいました。君を傷つけちゃいましたよね。机の中の包み物を確かめもしないで、「これ何?」って、みんなの前に晒してしまいました。あれは君からのプレゼントだったんだよね。今更ながら赤面してしまう。ホントに傷つけちゃったよね。
中学、高校も同じ学校だったけど、もろもろの事情が絡まって、接点はほとんどなく、高校三年生の時、同じクラスになったよね。「なんでアイツがこのクラスに?」ってみんなに思われていたから、君もビックリしただろうね。事情は担任のK先生しか知らなかったからね・・・。冷たい視線の中・・・ってほどの被害者意識はなかったけど、言い訳できない分悔しかった。心で泣いていた。
卒業式の日、式が終わって教室に戻り、保護者も後ろに並んだ時、みんなちょっと興味津々って感じで僕の保護者を見ていたよね。親世代でもないし、姉にしては顔が似てないし・・・。五つ年上の彼女。あれからの五年間が凄まじかった。いつか君に話せる日が来るかなと思いつつ、今日になってしまったよ。
同窓会の誘いは貰うんだけど、帰郷出来ずじまい・・・。君が出席できるときに帰れて話せたらいいんだけどね。夢のまた夢に終わっちゃいそうだね。
二十歳前の僕は、予備研修と言うことで、岡山県の山村に派遣された。
先輩布教師の下で細やかな手ほどきを受けた。しかし数日後、僕は大けがを負ってしまった。
先輩の運転するバイクの後ろに乗せてもらっていたのだが、何せ田舎の砂利道、蛇行とバウンドで手が離れてしまい、僕は路上に放り出されてしまった。
その後の記憶はない。気が付いた時には、僕は宿泊先で布団に寝かされていた。外傷は、眼鏡と時計での裂傷。あとは打撲傷で、身体はまったく動かなかった。信教上の理由で病院へは運ばれず、祈りの中で治癒を待つということだった。僅かな目覚めと昏睡の連続で、何日経過したのかさえ分からなかった。
やっと意識が正常に戻ったとき、僕の枕元に一人の女性がいるのに気が付いた。宿の娘さんで、お産のため里帰りしている人だった。4〜5歳年上のひとだろうか。「大変だったね〜。もう大丈夫そうね。」と言いながら手際よく身の世話をしてもらった。その時、何から何までお世話になったと思うと、恥ずかしさと不思議な心地よさとが、僕の心の中で渦巻いていた。
事故から一週間経ったころだろうか・・・彼女が「あきおくん、お手紙よ」と言って封書を渡してくれた。「開けてあげるね」と言って開封すると、中から数枚の写真が出てきた。「あ〜、彼女?奇麗なひとネ」と言って、ちょっと拗ねたような顔をして部屋を出て行った。たしかにそういう存在の人からだったのだけれど。
更に一週間が経過して、彼女が赤ちゃんと一緒にご主人の下へ帰る日が来た。「心配だからもうちょっと居てあげたいけど・・・ごめんなさいね」そう言って僕の頬にチューをした。そして「横須賀から手紙を書くね。ペンネームで出すからね。彼女さんに怪しまれないように・・・」そう言って今度は頬擦りをして部屋を出て行った。
松江に帰った僕に、かなり頻繁に彼女から手紙が届いた。彼女の現実生活の中に暗雲らしきものがあったのか?具体的なことは何も書かれてはいなかったけれど、言外に彼女の淋しさのようなものを僕は感じ取っていた。いつものことだけれど、僕の生い立ちから来る何かが彼女を刺激したことは確かだと思った。それは・・・致命的なくらいの(母性愛欠乏症)であり、いつも無意識のうちに遠くを見ているような(世捨て人)的な表情だと思った。
写真の中では、いつも笑顔のきみだけど・・・
今は、もういない
同期の仲間〜五人
あれからすぐバラバラになってしまったね
時の悪戯?
ボタンの掛け違い?
直接の原因が何であれ
きみは蘇らない
ここまで生き抜いたきみが見たかった
何よりも恩返しをしたかった
弱虫、泣き虫(あきおくん)の
今を見て欲しかった
カラオケの前奏が始まったとき、僕はあなたの携帯番号にONして、
胸のポケットに入れた。そして歌い始めたその歌は、
あなたへの想いそのものだった。
何がそうさせたのか・・・
臆病者の僕にしては、大胆な行動だった。
いや、想いを歌に託したのは、やはり僕は臆病だったのかもしれない。
戦友・・・相棒・・・知己・・・
軽く浮かれたステージを超えた強烈な心の繋がりが、そうさせた。
眼には見えなくても
強く太いラインは厳然と目の前にある。
超える・・・超えない・・・その葛藤の中で
燃え尽きて・・・昇華して・・・
その結晶は純化する。
君は、今・・・何処にいて何を思っていますか?
僕は、今・・・亡霊のような想い出の中で
吸う息を貰い、明日のいのちを確認する。
そんな場面をいくつ数えた?
水の都は各地にあるが、故郷・松江もその名にふさわしい水郷都市だ。
宍道湖、嫁ケ島、松江大橋・・・そこに上がる花火は絶景だ!
糊の効いた浴衣を着せられて、慣れない下駄を履かされて・・・
父に手を引かれて見物に行った。
横に母がいないのが寂しい。
母は北松江の生家で、あの花火を楽しんだのだろうか?
横田先生は、僕が叔父の仕事の手伝いで、郷里・隠岐島で仕事をしていた時に巡り合った大先生だった。父が近くの村の中学校の校長をしていた頃の繋がりだと記憶している。
先生の住んでおられた小さな漁村の防波堤工事に行ったわけだが、仕事休みの日に御宅へお邪魔した時に、この「ともる-隠岐の四季ー」の本をいただいた。
二十歳そこそこの若造に、優しく穏やかに接してくださった。大自然の中で悠々と生きておられる先生を、その時にはそれほどの実感を持てなかった自分が恥ずかしい。