日記帳のように
備忘録のように
綴り続けて14年になる
時にはスリップしてみよう
<旧なべちゃんエッセイ>
ダークブルーの背景色が好きだった
若い!というほどでもないけれど
同じ自分なのに、パワーを感じる
知らず知らずのうちに
下り坂を歩いているのかもしれない
半世紀以上の時を経ても
頭にこびり付いている言葉はあるもので・・・
高校時代のK先生(英語)の口癖
「いいか、三単現のSだで!(出雲地方の訛り)」
中学時代のN先生(国語)の教え
「が の を に へ と から より で・・・」
「助詞、助動詞〜明日までに空で言えるように」
なるほど・・・
教えのポイントはリピートにありか。
京都の独身時代、僕は紅葉で有名な東福寺の近くの安アパートに住んでいた。
「いちご白書をもう一度」じゃないけれど
ヒッピーかぶれからの脱却の時期だったのかもしれない。
二十歳のころ
六畳一間のアパートに有った物は
テーブル代わりの電気炬燵と
ボストンのレコードプレーヤー
シルビーバルタンの大きなポスター
そして寝袋
見に行った映画は
ローリングストーンズの「ギミーシェルター」
二十代前半、英会話の先生
教室での授業よりも、課外授業が濃密だった。
恥ずかしがり屋で消極的な僕を
大改造してくれたのが、この先生だ。
物心がついてから
「お父さん」と呼んだことがない
大きくなって
酒が入ると、たまに
「親父・・・」と呼んだ
逆に父も
「あきお」とは直接呼ばなかった
何かがその言葉を拒んでいたのかもしれない
<資格>のようなものだろうか
<喪失感>がそうさせていたのかもしれない
子供たちよりも
亡き妻に心が向いていたに違いない
母が亡くなってから一年後、父は隠岐島を離れて、本土・松江へ出た。
住まいは母方の祖母と叔父夫婦の家に間借りした。
この時、兄や姉も一緒だったのかどうか記憶にない。僕は四歳前だ。
父は一畑電鉄の北松江駅から二つか三つ西の長江小学校へ赴任した。
父が出勤するとき、寂しかったのだろう・・・僕は父を追いかけて二キロほど
泣きながら走った。
駅の手前で気づいた父は、何とか僕を返そうとしたが、泣き止まず座り込んで
しまったので、仕方なく僕を連れて出勤した。
今では考えられないことだが、時代もあり田舎でもあり、僕は職員室で
その日を過ごした。どの先生も優しかった記憶がある。
真新しい家は
確かに存在していた
だが
そこに家庭は無かった
父の建てた家に
呼ばれた僕は
お客様の様に
叔父のカメラの前に立っている