♪クシコスの郵便馬車・・・覚えていますか?
僕はハッキリ脳裏に刻まれています。(運動会でもよく使われた曲だけど)
学芸会の時、顔の半分ぐらいはあるようなハーモニカを、半音を駆使して一生懸命吹いている姿を思い出します。曲に聴き入るというよりは、その演奏姿に見入ってしまいました。
一年生の時から卒業するまで、六年間ずっと同じクラスでしたね。そして学級委員も、必ず二学期で一緒でした。あんなにたくさんの生徒数で9クラスもあったのにね。
六年生の時かな?僕は大失態を犯してしまいました。君を傷つけちゃいましたよね。机の中の包み物を確かめもしないで、「これ何?」って、みんなの前に晒してしまいました。あれは君からのプレゼントだったんだよね。今更ながら赤面してしまう。ホントに傷つけちゃったよね。
中学、高校も同じ学校だったけど、もろもろの事情が絡まって、接点はほとんどなく、高校三年生の時、同じクラスになったよね。「なんでアイツがこのクラスに?」ってみんなに思われていたから、君もビックリしただろうね。事情は担任のK先生しか知らなかったからね・・・。冷たい視線の中・・・ってほどの被害者意識はなかったけど、言い訳できない分悔しかった。心で泣いていた。
卒業式の日、式が終わって教室に戻り、保護者も後ろに並んだ時、みんなちょっと興味津々って感じで僕の保護者を見ていたよね。親世代でもないし、姉にしては顔が似てないし・・・。五つ年上の彼女。あれからの五年間が凄まじかった。いつか君に話せる日が来るかなと思いつつ、今日になってしまったよ。
同窓会の誘いは貰うんだけど、帰郷出来ずじまい・・・。君が出席できるときに帰れて話せたらいいんだけどね。夢のまた夢に終わっちゃいそうだね。
二十歳前の僕は、予備研修と言うことで、岡山県の山村に派遣された。
先輩布教師の下で細やかな手ほどきを受けた。しかし数日後、僕は大けがを負ってしまった。
先輩の運転するバイクの後ろに乗せてもらっていたのだが、何せ田舎の砂利道、蛇行とバウンドで手が離れてしまい、僕は路上に放り出されてしまった。
その後の記憶はない。気が付いた時には、僕は宿泊先で布団に寝かされていた。外傷は、眼鏡と時計での裂傷。あとは打撲傷で、身体はまったく動かなかった。信教上の理由で病院へは運ばれず、祈りの中で治癒を待つということだった。僅かな目覚めと昏睡の連続で、何日経過したのかさえ分からなかった。
やっと意識が正常に戻ったとき、僕の枕元に一人の女性がいるのに気が付いた。宿の娘さんで、お産のため里帰りしている人だった。4〜5歳年上のひとだろうか。「大変だったね〜。もう大丈夫そうね。」と言いながら手際よく身の世話をしてもらった。その時、何から何までお世話になったと思うと、恥ずかしさと不思議な心地よさとが、僕の心の中で渦巻いていた。
事故から一週間経ったころだろうか・・・彼女が「あきおくん、お手紙よ」と言って封書を渡してくれた。「開けてあげるね」と言って開封すると、中から数枚の写真が出てきた。「あ〜、彼女?奇麗なひとネ」と言って、ちょっと拗ねたような顔をして部屋を出て行った。たしかにそういう存在の人からだったのだけれど。
更に一週間が経過して、彼女が赤ちゃんと一緒にご主人の下へ帰る日が来た。「心配だからもうちょっと居てあげたいけど・・・ごめんなさいね」そう言って僕の頬にチューをした。そして「横須賀から手紙を書くね。ペンネームで出すからね。彼女さんに怪しまれないように・・・」そう言って今度は頬擦りをして部屋を出て行った。
松江に帰った僕に、かなり頻繁に彼女から手紙が届いた。彼女の現実生活の中に暗雲らしきものがあったのか?具体的なことは何も書かれてはいなかったけれど、言外に彼女の淋しさのようなものを僕は感じ取っていた。いつものことだけれど、僕の生い立ちから来る何かが彼女を刺激したことは確かだと思った。それは・・・致命的なくらいの(母性愛欠乏症)であり、いつも無意識のうちに遠くを見ているような(世捨て人)的な表情だと思った。
写真の中では、いつも笑顔のきみだけど・・・
今は、もういない
同期の仲間〜五人
あれからすぐバラバラになってしまったね
時の悪戯?
ボタンの掛け違い?
直接の原因が何であれ
きみは蘇らない
ここまで生き抜いたきみが見たかった
何よりも恩返しをしたかった
弱虫、泣き虫(あきおくん)の
今を見て欲しかった
カラオケの前奏が始まったとき、僕はあなたの携帯番号にONして、
胸のポケットに入れた。そして歌い始めたその歌は、
あなたへの想いそのものだった。
何がそうさせたのか・・・
臆病者の僕にしては、大胆な行動だった。
いや、想いを歌に託したのは、やはり僕は臆病だったのかもしれない。
戦友・・・相棒・・・知己・・・
軽く浮かれたステージを超えた強烈な心の繋がりが、そうさせた。
眼には見えなくても
強く太いラインは厳然と目の前にある。
超える・・・超えない・・・その葛藤の中で
燃え尽きて・・・昇華して・・・
その結晶は純化する。
君は、今・・・何処にいて何を思っていますか?
僕は、今・・・亡霊のような想い出の中で
吸う息を貰い、明日のいのちを確認する。
そんな場面をいくつ数えた?
水の都は各地にあるが、故郷・松江もその名にふさわしい水郷都市だ。
宍道湖、嫁ケ島、松江大橋・・・そこに上がる花火は絶景だ!
糊の効いた浴衣を着せられて、慣れない下駄を履かされて・・・
父に手を引かれて見物に行った。
横に母がいないのが寂しい。
母は北松江の生家で、あの花火を楽しんだのだろうか?
横田先生は、僕が叔父の仕事の手伝いで、郷里・隠岐島で仕事をしていた時に巡り合った大先生だった。父が近くの村の中学校の校長をしていた頃の繋がりだと記憶している。
先生の住んでおられた小さな漁村の防波堤工事に行ったわけだが、仕事休みの日に御宅へお邪魔した時に、この「ともる-隠岐の四季ー」の本をいただいた。
二十歳そこそこの若造に、優しく穏やかに接してくださった。大自然の中で悠々と生きておられる先生を、その時にはそれほどの実感を持てなかった自分が恥ずかしい。
高校時代、精神的に病んでいたころの話。僕はある宗教施設から登校していたのだが、まったく授業に集中できず、徐々に校門をくぐることが億劫になっていった。
そんな時は、学校の近くにある叔父の家に避難(?)した。叔父叔母はもちろん仕事で留守、祖母が一人でいた。祖母は不登校のことは一言も責めずに迎え入れてくれた。これは救いだった。
祖母はいつものように「あきお、カルタしょうや」と僕を誘った。花札である。
「手七の場六」と言って始めた。祖母は形勢が悪くなると、いつもイカさまをした。僕にはそれが分かるのだが、そのまま続けて「あ〜、また負けてしまった〜」と下手な演技をした。
しかし、いま思えば、祖母はいろいろ慮ってそんなフリをしたのではないかと思う。もしあの避難場所がなかったら、僕の人生はどう転んでいたか分からない。
D百貨店のバイト仲間のランボーことM君は、呉服売り場の彼女にアタックした
が、まったく相手にもされず、超落ち込んでしまった。目も虚ろで抜け殻のよう
だった。それは真冬の厳しい寒さのことだったのだが・・・、彼は近くの小高い山
に登り、雪の中で凍死寸前のところまで行ったらしい。そしてギリギリのところで
彼は煙草用に持っていたマッチに火を点け、それを手の甲に押し付けたらしい。
そこで我に返りやっとのこと下山したらしい。(後々の彼の話)
僕の部屋に転がり込んでいた彼は、ある日寝袋一つを抱えて「ギリシャに
行ってくるわ」と言い残して、ホントに出ていってしまった。
ギリシャ?どこでどう繋がっているのか、僕には全く理解できなかった。
数日後、彼からハガキが届いた。「今、横浜。明日、ギリシャ船に乗る」と
だけ書かれていた。
彼がひょこっと僕の部屋に帰ってきたのは、それから一年後のことだった。