秋元康は「象の背中」で書いている
・・死を覚悟した象は、独り静かに群れを離れ、死に場所へと向かう・・
阿久悠は「時代おくれ」で書いている
・・好きな誰かを想いつづける・・ひとの心を見つめつづける 時代おくれの
男になりたい・・
男の美学とでも言うのだろうか
若い頃のような直情型でもなく
一歩も二歩も引いたところから
物事をそして人を見る
優しすぎるくらいの眼差しの奥に宿る鋭い視線
そして情愛
届いてますか?・・・この想い
伝わってますか?・・・この眼差し
逆境と言えるかどうか、それは微妙だ。
主観と客観で、意見は分かれるからだ。
大方は冷静な目として客観に軍配を挙げるだろう。
しかし、この段階での主観と客観の闘いは微妙極まりない。
奇跡の大方は、客観視を崩した時にこそ起きるからだ。
さて、さて、さて・・・
クールに見つめよう。
あの光が見えるかい?
自分の結婚式で歌った。
誰の歌なのか覚えていない。
ただ、自分の心の代弁だなと。
♪信じてくれよと
頼みはしない
あなたの支えになれたなら
それでいい それでいい
何も要らない
暗いこの世に
明かりをひとつ
人知れず 人知れず
灯してみたいのさ
好きだなんて
そんな言葉は要らない
あなたがわかってくれたなら
それでいい それでいい
黙っていても
通う心の真珠の命
人知れず 人知れず
愛していたいのさ
言葉にしなければ伝わらない
それは十分すぎるほど分かっている
でも、これは僕の暴論かもしれないけど
眼と眼の会話もあるんだよ
以心伝心もあるんだよ
僕はむしろこっちの方を信じたいね
そしてその微妙極まりない空気が伝わらないのなら
その関係は終わりと考える
不成就にも納得と言うわけだ
どうやら僕は・・・
他人様とは異質な世界に生きているらしい
誰が善者で誰が悪者かなんて
我々のはかり知るところではありません
そしてまた
何が身に沿い何が沿わないのかなんて
これもまた
我々のはかり知るところではありません
比較の目線を捨てて
ひたすら我が道を行くだけです
それが人生の一本道というものです
僕がこうして生きているからと言って
あの人もこうして生きているわけじゃない
まったく同じ人生観や価値観で生きてるわけじゃないことぐらい
分かっているつもりでも
どうしても同じレベルにおいてしまう自分がいる
これこそが
傲慢というものなのだろうか
父は<歩く人>だった
実によく歩いた
「車で送ろうか?」と言っても
片手を挙げて「ノー」と意思表示した
麦わら帽子を被り、ゴム草履でスタスタと歩いた
まさに、スタスタ・・・と
少々遠い所へも、バスにも乗らずに
とにかく歩いた
今、僕はそのころの父の年齢を超えたが
とてもじゃないが、父の真似は出来ない
やはり、老化は足からやってくる
因みに、父は百歳まで生きた
セルフコントロールのできない奴に
人を教え諭す資格はない
まさに
論外の話だ
○○は死ななきゃ治らない
いや
死んでも治らない
今に倍して
持ち越しだ
僕独りなら
トコトン落ちてやれ
という自分がいる
けれども
家族がいる
さてそこでどう生きるのか
いつもの悪癖さ
二人の自分を生きようとする
しかし・・・しかし・・・
その二人の自分のバランスが厳しいのだ
「アンバランスもバランスの一種です」
と言ったのはだれでしたっけ?
成長のための試練とか
心の肥やしとか言うけれど
それはうんと後から言えることで
その時の・・・
当事者の僕には
悲しみと絶望しか無かったさ
そこから根付いたピエロ性は
生きるための最小限の鎧だったのかも知れない
♪俺を見捨てた女を
恨んで生きるより
幼い心に秘めた
むなしい涙の捨て場所を
探してみたい
遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかったこの街で