僕には養子縁組の話しが絶えなかった。母親が三歳の誕生日の明くる日に亡くなり、その後の継母との間に兄姉の反発(家出)があり、義弟が生まれ、家庭的混乱の中では当然のことでもあった。
最初は叔父(母の弟)だったと記憶している。戦争の原因(負傷)もあって子供が無かったこともあっただろう。次は中学生の時の体育の先生。何という巡りあわせか・・・入学と同時に同じ中学校に父が赴任してきて、当然のことながら先生方にも生徒の間でも知れるところとなり、なんとも窮屈な通学となってしまった。バスケット部に入ることとなり、その顧問がF先生だった。おそらくは時間外での酒の入った話の中で、私的な打ち明け話の中に家庭内の混乱が話題となったのだろう。F先生にも子供がいなくて養子話に発展したようだった。
高校時代の途中からは他の記事にも書いたので省略するとして、結果的には親戚のたらい回しとも言える結果となり、他の叔父、叔母の所でほぼただ働きに近い状態で、貴重な青春時代を過ごすことになってしまった。しかし今思えば、一見無駄な遠回りとも思える時代こそが、僕の精神的屋台骨を作ってくれたと言える。これは間違いのないことだ。
養子縁組に絡んで、当然ながら結婚話も具体化する場面が何度かあったのだが、当時の僕にはそれらは夢物語にしか映らず、生半可な返事を繰り返し独り空想的世界に逃げ込んでいた。あらゆる場面場面に亡き母の亡霊が僕の心を支配し、それらのすべてを拒絶させた。僕はずっと抜け殻のように生きていたわけだ。叔父に「お前は、世捨て人のような奴だな」と謂わしめた原因は此処にあったのだ。
言葉の上では失恋だが、相手の方に非は無くて、すべては僕個人の責任だ。相手の同情や母性的感情を、そのまま恋愛として受け入れることがどうしてもできなかったのだ。言葉は悪いが<ヒモ的生き方>も可能だったかもしれない。それを赦さない最後の砦は、やはり亡き母の囁きだったのだ。男と女の具体的な場面場面で、母は登場した。囁いた。男の体に変化をもたらした。一見屈辱ともとれる事象に、僕は母の声を聴いたのだ。あれは<魂の叫び>だったのかな。