三十年前の父だ
柱にもたれ
膝を抱えて
顔を埋め
動かず
黙考していた
何を思い巡らしていたんだろう
足元には
紙と鉛筆が置かれていた
僕には読み取れない
文字が散らばっていた
ただ
「視姦」という一語だけが
読み取れて
心の片隅に引っかかった
小説の中の言葉なのか
現実の中のそれなのか
僕には判断しかねた
義母の入院先へ通う
父の心の動きに
薄ぼんやりとした
怖れを抱いた記憶がある
これはずいぶんと後になって分かったことなんだが・・・
S先生は、姓が<柴田>で、旦那はなんと!当時超有名なロックバンド「村八分」
のヴォーカルだった。彼がアメリカを放浪していたころ知り合ったみたいだ。
当然ながら田舎者の僕には無縁の世界だったのだが、恰好だけはヒッピーまがいで
ローリングストーンズにかぶれていたのだから、知っていてもよさそうなものなの
だが、アンダーな世界だったのだろう・・・まったく知らなかった。
それに彼女もまったくそのことは言わなかったし・・・。
加えて・・・フォークへ移行する端境期でもあって、すれ違いのような世界だっ
た。
ギャップが織り成す人生模様
ひとは何処で誰に逢うかわからない。
S先生はミセスとはいえ、僕と同世代だったわけなのだが
田舎出のぼんくらには、はるかに年上に見えた。
でも逆にアメリカ人の先生には、純粋無垢な青年と映ったのかもしれない。
肝心の英会話以外でも、たくさんのことを教えてもらった。
まさに手取り足取り・・・。
そこには、外国人そして女性という微妙なクッションがはたらいて
ちょっと危険な領域も、僕には鵜呑みに信じられる安心感があった。
それがまた、先生には意外であり新鮮であったのか・・・
急速に距離が縮まって行った。
スバル360でのドライブや、薄暗い喫茶店での課外授業や
プライベートルームでの微妙な関係や・・・
短期間ながら、なんと多くのことを学んだことだろう。
二十歳前の僕を知る人間からすれば、まさに別人と見えたことだろう。
一方先生は、日本的な原石を刻み磨く喜びを持ったのかもしれない。
今になって思えば・・・の話である。
待ち合わせの場所に
きみは、カンカン帽を被って現れた
そしてコンタクトからメガネへ
なかなかこのファッションセンスは
僕にはかなわない
特異なものがフィットして、違和感を感じさせない
これは(地)の問題だな
もっと自分を内面から磨かなきゃ
後悔先に立たず
何を言っても、言い訳になってしまう悪循環
♪消えない過ちの 言い訳する前に
貴方に もっと 尽くせたはずね
連れて行って 別離(わかれ)のない国へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何処にあるの 悲しまない国
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ごめんね・・・」 高橋真梨子
だから・・・
face bookに載せている僕の似顔絵の原点は45年前にある。
北〇〇のミサイルが隠岐諸島の数百キロ先に・・・というあの隠岐の島で、
僕は、国の離島振興策である港湾建設に従事していた。・・・と言えば
聞こえはいいが、孫請けのまたその下〜というわけで・・・。
なぜ涙を流しているのか?
なぜ俯いているのか?
言い訳がましいかもしれないが・・・
なにくそ! 今に見ていろ!
の裏返しだったのかもしれない。
机の中に何か白い包みがあるのを見つけた。
深い事情も知らず、僕は「これナニ?」と声を上げた。
教室の何人かが僕のそばに集まってきた。
中にはエンピツと消しゴムが入っていた。
一瞬、背後に目線を感じた時には、もう遅かった。
彼女は廊下へ飛び出して行った。
小学生時代、最大のミス!
♪いつもの小径で 目と目が合った
いつものように 目と目を逸らせた
通り過ぎるだけの ふたりのデート
言い出せないもどかしさ・・・気恥ずかしさ
今、思い返せば
そんな場面を経験したことが
宝物に思える
♪さよならを言えただけ
君は大人だったね・・・
これは後から、そうずっと後から思えることで
その時に、こんな感慨は抱けるはずがない。
非情と思いやりは隣り合わせのものなのか。
君に、十年先の僕の姿を予測できたのだろうか?
僕は一番が嫌いだった。いや、一番には逆立ちしてもなれなかったのだから
言い方を変えれば、二番、三番というポジションが居心地よかった。
僕の小学校時代は三学期制で、一学期の学級委員は一番賢いやつ(がり勉くん)が
任命されていた。三年生から六年生まで、僕はずっと二学期の委員だった。
大方が貧乏の時代だったけど、僕は幼稚園にも行けず、ランドセルも買ってもらえ
なかった。だから、風呂敷に教科書なんかを入れて登校していたのだけれど、
それも恥ずかしくなって、全部教室の机の中に置いて帰るようになった。
あのころ宿題と言うものがあったのかどうかも記憶がないけれど、適当に切り抜け
ていたのだろう。
教師の父は、そんな僕を知ってはいたのだろうけれど、諫めるようなことはまった
くなかった。その代わりにやたらと「本を読め、本を読め」と言われた。
そこそこの年齢になってからも「わからなくてもいいから、最後のページまで
読め」「英語の原書を読め」と口うるさかった。