「たとえその言葉が 悪意から発せられたものであろうとも それを受けるだけの何かが自分の中にあると思いなさい」 なかなか・・・そうは思えないものです。 つい、反撃をしてしまう。 「だから、ぐっと堪えて、深呼吸をして」 「今生のことではなく、過去世に想いを巡らせなさい。 何をしでかしてきた魂かわかりません」
『極まりて 悲しきときにあらざれば まことの信は 起こらざりけり』 日扇聖人 癌の再発 手術不能 死を待つのみ ここが・・・正念場
『鷂(はしたか)の拳の下の温め鳥 恩を知らぬは人にぞありける』 (日扇聖人) (小鳥を掴まえて暖をとった鷹は、翌朝逃がしてやると、その日一日は、小鳥が 逃げて行った方角へは、餌を求めに行かない〜と言う話。動物たちでさえ恩を 知っている。それに比べて、なんと人間の恩知らずなことか)
『きはまりて 悲しきときに あらざれば まことの信は おこらざりけり』 (日扇聖人) 何事も無いことが、本当は幸せなんだけれど 哀しいかな人間は、その実感が持てない。 とことん極まって初めて 自分の愚かさや無力や傲慢を知る 「苦しい時の神頼み」じゃなくて 純粋に天(仏)の助けを願う時 それこそが<信>というものなのだろう。
『心 そこにあらざれば 見れども見えず、 聴けども聞こえず』 (日扇聖人)
「第六天の魔王は 信者よりも信者らしい巧みな言葉で 囁きかけてくる」 それは、自分の心の中のおよそ半分を占領しているのかもしれない。 人間は・・・、善心と悪心が、常に壮絶な闘いをしているのだ。
『 心入れ替はれば(一心一念、心が本なり)身体の気血のめぐりもかはる。 感ずるときはしまる、逸するときはほどける、恐れるときは青く、いかるときは 赤し、不思議なり、人相もかはる。運気もかはる。妙也 』 (日扇聖人 御指南)
『 追へども去らず、招けども来らず 』 『 おのが身に備わる報いあるならば 招かずとても来るものは来ん 』 (日扇上人)
『 冥きより 冥きに入る 』 (くらきより くらきにいる) 生死の境があるとはいえ、大半の人間は、ほとんどの人間は、闇から闇へと 往くのである。 この世もあの世も一緒、続き。 世間では、死ねば仏になるというけれど、実はそうではない。 どんな法に巡り合うか否か 最高の教えに巡り合うか否か そして、その千載一遇のチャンスを逃さないこと。 (稀に人身を得、たまたま仏法に逢えり)
『 亡霊、弔いを待つ 』 『 常盆 常彼岸 』
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