偏見ではなくて、なんともトランジスターな娘だった。
背丈は僕の肩までもなかったかもしれない。
九州女らいしく明るくてハキハキしていて面倒見が良かった。
五つも年下なのに、時々お姉さんのような振る舞いをして、僕を戸惑わせた。
達筆だった。性格そのままの男性的とも思える字を書いた。
僕は左利きを無理やり直されたものだから、全部に力の入った画々の字しか
書けなかった。でも、それはそれで彼女は僕の字を褒めた。
「字は体を表す」なんて、解ったようなことを口にした。
送別会となってしまった会社の新年会の時、「青春時代」をデュエットした。
歌の題名の通り、複雑怪奇な青春時代の一つの幕が下りた。
同姓だった。
三つ年上で、彼女のお母さんも先生だった。
県境の米子で働いていた。
米子は同じ山陰なのに、なぜか都会的な雰囲気の街だった。
東京スタイルというか、垢ぬけた雰囲気だった。
山陽との交通の要所だったからかもしれない。
お母さんや妹さんたちは、出雲大社に住んでいた。
理由は聞かなかったが、何かの理由で親夫婦の仲は良くなかったと聞いた。
いつものパターンで、僕たちは姉と弟のような関係だった。
詳細を知らない人から見れば、それで通ったかも知れない。
夫々の親たちは、これまた夫々に悩みを抱え呻吟していた。
その一種ドロドロとした闇の中で見つけた、灯だったのかもしれない。
これは何の分野でも言えることなんだが、
人の能力、理解度、進捗度、、、これはまさに人それぞれ、
あたかも全員が横一直線で進ことなんて不可能なわけで・・・
それを「こんなこともできないのか!」とばかりにやられては
大半が尻込みするに決まっている。
かと言って、100m競争で、長い棒をみんなが持って走って
全員が一等賞!と言うのも???である。
難しいことはさておいて、指導者、牽引者の「器」の問題だな。
我慢も必要だろう、根気も必要だろう。
そして何よりも「愛」と「情熱」が最優先だろう。
不愉快極まりない話を聞かされた。
某有名作家の、偉大な某詩人の実態は、○○だった××だった・・・
と言うもの。
その考えには声を大きくして反論したいね。
世間的な目から見ての実態がどうであろうが、彼(彼女)から生み出される
小説が、詩歌が、或いは絵画が、
世の人に感動を与えれば、それだけで素晴らしいことじゃないか。
逆に言えば、そうした現実があったればこその作品じゃないのかな?
もう何十年も前の話だが、似たような経験をした覚えがある。
それは・・・「宮本武蔵」
吉川英治のそれは誰にでも感動を与えた筈だ。
そこへ後年、「新説 宮本武蔵」なるものが出て、ドラマ性のない
リアリティーの世界を突き付けられると、感動の風船は、一気にしぼんで
しまった。
ぐっと砕けて・・・
こんな歌を思い出す。
♪ひとの妻とも 知らないで
おれはきたんだ 博多の町へ
逢わなきゃよかった 逢わないで
夢にでてくる 初恋の
君をしっかり だいていたかった
善と悪 真実と虚偽 仮と実
熱心と怠惰 献身と我欲…
対極同士がせめぎ合う
おのが心の合戦
49対51でも支配率では負け
さあ、そこをどう攻め返すか
どう立て直して行くか
葛藤ではなく、悩むのでなく
ひたすら攻め落とす
妥協は問題を先に延ばすだけ
捨て鉢ではなく
矢でも鉄砲でも持って来い!
「もらい湯」と書けば、これは現代ではもはや死語かも知れない。
母の死後、父は再婚し、隠岐の島から松江に移住した。父は教師と言う仕事柄、
転任を繰り返したこともあり、僕は小学校を卒業するまで、ほぼ毎年転居を余儀な
くされた。ようやく義母の里の家に落ち着いたのが六年生の時だった。母屋の裏に
あった納屋を改造して、そこが僕たちの住まいとなった。兄と姉は、通学の都合や
義母への抵抗感が強く、母方の親戚に身を置いていた。
建物の構造上、当然ながら風呂は無く、母屋のお風呂に入れてもらうことになっ
た。いわゆるもらい湯だ。五右衛門風呂だったから、その沸かし役は僕だった。
新聞紙で火種を作り枯れた松の木、そして薪という順番で沸かして行った。蛍の光
ではないが、その灯で本を読んだ記憶がある。
僕たち家族が入れるのは当然ながら母屋の人たちの入浴後であり、日が代わるこ
ともしばしばだった。隣が寝室と言うこともあり、できるだけ音を立てないように
随分と気を遣った。
こんなことの連続の中で、僕の性格は出来て行ったのかもしれない。いつも言う
<ピエロ性>だ。顔で笑って心で泣くいつもニコニコの<笑顔良しのあきちゃん>
だ。
「時が解決する」とは
よく言ったものだ
「時間がクスリ」とも言う
別な言い方をすれば
時が己を成長させる
涙が乾くまで
泣くだけ泣けばいい