人間の価値は「正義感」
これを失っちゃあお終いだ
ゼレンスキー vs トランプ
少数野党 vs 政権党
いわゆる「政治的」なヤツにはウンザリだね
絶対的とも言える正論が通用せず抹殺されるんだからね
僕の生活信条は、「何事も さりげなく さりげなく」なんだが、表面上も
心の中もまったく同じかと問われれば、もちろん「ノー」と答えるしかない。
葛藤とまではいかなくとも、一種の自己制御は働いているわけだ。
鎧兜や裃袴まで身に着けるわけではないが、それなりの身づくろいはして
いないと、丸裸では世の中歩けない。心の中の葛藤は人間形成上の必須条件
だと思っている。常に自分を客観視して修正努力を惜しまない。それでこそ
成長と言うものだろう。
一方で、世の中によく言えば<裏表の無い人>はたくさんいるけれども、
そういう人たちは、少なからず衝突を生む。建設的衝突ならむしろ歓迎される
べきものなのだろうけれども、大方は<大人の喧嘩>に発展し、けんか別れや
いがみ合いでしこりを残すことになる。
<熟視黙考>・・これは一つの鍛錬だ。そして最終結論を緩やかに<発信>する。
ここでこそ・・・さりげなく、さりげなく。
先生が、親が、そして知らぬ誰かが決めつけた、その道を歩み続けることはない
さ。あたかもその一本道の到達点を示されたからって、そこが本当のゴールとはか
ぎらないし、そこが幸せとはかぎらないさ。
跳ね返してやれ!
捻じ曲げてやれ!
鋭い刃で切り刻んでやれ!
きみの信じる道を行け!
確かでないのは分かり切っている。だから、それを確かめに行くんだろう?
君にとってのたった一人の賛同者でも、僕は応援するよ。
昔の僕と重ね見ているからね。
糸井重里氏の「独り遊び」を真似してみた。替え歌というほど大層なものではないが、歌詞のある部分を他の言葉に置換えたりするものらしい。
例えば…「悪いのは僕の方さ 君じゃない」→「悪いのは君の方さ 僕じゃない」みたいな。面白い!
「この街が好きさ 君がいるから」→「この街が嫌いさ おまえがいるから」
「きっと来てねと 泣いていた」→「もう来ないでと 怒ってた」
どんなに素晴らしい名言、卓説も
その趣旨の何分の一でもいいから
自分の中に取り込んで
実践、実行、体現しなければ意味がない
ただの物知り学者で終わってしまう
悩んでいる人に
頑張れ!頑張れ!と言ってはダメと言われるけれど
その理由がいまいち分からない
だからせめて心の中で
フレー!フレー!と旗を振る
遠い空だよ いとしい瞳
呼べどこだまは かえらない
恋は一度さ さすらい者が
男泣きして みる夢さ
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呼んでとどかぬひとの名を
こぼれた酒と指で書く・・・
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一人酒・・・
なぜか昔の唄が蘇る
なにがそうさせるのか
これを「未練」と言うのだろうか
僕が若い頃の雪は少々大雪でも、どこか楽しめるところがあったように思う。
ところがどうだ、最近ではちょっと積もったくらいで大騒ぎだ。もちろん「慣れ」もあるだろう。雪質や気温との絡みもあるだろう。どうやら今の世は、風流という言葉は欠け落ちてしまったようだ。
また警報級の雪が降るみたいだ。
ふと…口ずさむ歌がある
人間の幸せ感は
そんなところに宿る
♪寒い夜ふけは お酒を買って
たまのおごりと はしゃぐ姿に
きめた きめた
おまえとみちずれに…
懐かしいもの
それは公衆電話
たとえ街中であろうと
透明な箱の中という
ひとつの独立した世界
そこに意義がある
携帯社会とは異質の空間がある
話し中の静寂や吐息
あれは何ものにも代えがたい