大きくなる樹木は、人の目には見えない所で懸命に、
その根を幹を強靭にしようとしている。
逆に、ひょろっとした草木は
自身の蕾の重さにさえ耐えられず
うな垂れてしまう。
呆けた人間に腹を立てるのは空しい
相手が真面?であっての腹立ちなのだ
しかし、しかし・・・
そいつが(敢てそう言わしてもらおう)真面であった頃の所業に
腸が煮えくり返っているのである
(もう一人の自分が囁きかける)
あの状態があいつの受けるべき報いなんじゃないのかい?
今更、お前が何と言ったって、相手に伝わる訳じゃない
いい加減、卒業しろよな
(なるほど・・・)
地獄に落ちるまでもなく
この世で地獄を顕しているわけだ
僕のしゃしゃり出る幕じゃない
「名も無き雑草」と言うと、「植物に名前のないものは一つもない!」と
植物学者さんに叱られる。もとい!僕が名前を知らない草花が、コンクリートや
アスファルトの隙間で、逞しく生きている。
野村克也氏ではないけれど、まさしく<雑草魂>を見せつけられ、これは
人間社会にも共通するものだと思い知らされる。
文字通り有名人、著名人は、世間にその名を知られて存在であり、その他大勢は
名はあるけれども、大衆や住民の呼び名のもとにひとくくりにされてしまう。
大方の有名人が、そのギャラの額や人気度で格付けされ、あたかもそれが
人間度の格付けでもあるのように報じられる。それを鵜呑みに信じてしまう側も
問題だが、然るべき人たちは、そこらの線引きは当然のようにさりげなく行って
いるのだろう。
人は人、私は私、あなたはあなた、僕は僕
♪この広い世界中の
何もかも
ひとつ残らず
あなたにあげる
だから私に
手紙を書いて
手紙を書いて
久しく手紙を書かない
真意は文字化された言葉
の中に込められる
流れるような筆跡に
僕は言葉以上の心を感じた
だから…
だから、僕に手紙を書いて
世の中が様々なハラスメントに対して、NO!の声を上げ始めたことは認める
が、悲しいかな大方は、何か事が起こってしまってからの話しであり、具体的事件
になる前に、つまり事件化を未然に防ぐ段階での行動が大切ではなかろうか。
しかしながら、当事者的立場の者としては、非常に勇気の要る話であって、
極端な言い方をすれば、赤穂浪士的心境とでも言おうか、<刺し違え>覚悟と
言ってもいいくらいの忍耐と決断が求められる。
僕は、ささやかながらその行動を求められる立場にある。僕が決行しなければ
他の誰も出来ないし、僕が躊躇すればするほど被害者は増大し、最悪のケースを
招かないとも限らない。超現実的言葉を用いれば、警察沙汰になる前に動くことが
求められているのだ。
世の加害者は平然と言ってのける・・・「これは厳しい躾の一環だ!」
「これは愛の鞭だ!」・・その偏った思考に立ち向かうのは容易なことではない。
でも一方で、事件化されてしまっては元も子もないので、やはり自分が如何に
動くかと言う処に戻ってしまうわけだ。
年の功というのか
自分で言うのも何だが
いろんなものが見えてきたよ
えっ!がなくなって
やはりそうか!が
俄然多くなった
すべてが読めるってほとでは
ないが、的中率は高い
人の心、事の展開、事態の成り
行き、後始末の方法
後は、己だよ
そう、己
世の中の縮図が身近なところに厳然と存在している。
ドロドロとした感情のやり取りもあり、血なまぐさい決闘?もあり・・・
僕はレフリーでもないし、行司でもないけれど・・・
僕なりの判定はハッキリしているさ。
白旗! 赤旗!
両方挙げる人もいるけれど、
僕は片方しか挙げないね。
アウト! セーフ!
五十、六十、七十になって
自分の本質を改められる人は少ない、いや、皆無に等しい。
大方は、その時点での自分を<完成品>と思ってしまうのだ。
僕は思う・・・
第三者的<眼>を持った・・・もうひとりの自分を持つべきだ・・・と。
いや、しかし・・・
何もかも変えよ!と言っているわけではない。
己の心に誓って<これだけは譲れない!>事は、断固守り貫くべし!
第三者的には、「年の功」と言うのだろうか。
いろんなものが見えてくる、分かってくる。
しかし世の大方は、自身の<裸っぷり>には気づいてはいない。
裸の王様、裸の女王様のオンパレード。
大人社会は、ある意味・・・狡い。
その本質をすんなりと本人には言ってはくれない。
陰で言う・・・他人に言う・・・
真の友を見極めるべし!
、
そもそも「素直、正直」とは何なのか?
大人社会の「狡さ」にはウンザリだ。
他人の発言を遮るかのように、自分が端を発して
己の手柄?にしようとする。
オイ、オイ、それは僕の言った言葉だろう!?
まあイッカ!
それであなたの対面が保てるのなら・・・。
知る人ぞ知る。
それを信じたいね。