父が国語の教師だったせいか、あるいは自身が放送部に在籍していたせいか、僕は「話し方」というものに興味を抱く。
此処に書いていることも、僕の肉声で伝えられれば、それはそれでまた違った趣が与えられようというものだろう。
主義主張の立場的差異は大きくあるとしても、僕は西部 邁氏の話し方が好きだ。語彙が豊富だし、横文字の本質的で的確な引用が適度にあって、話中に引き込まれる。
面白いのは、「大きな声では言えないけど・・・」とか「小さい声で言うんだけど・・・」と前置きして、本音をズバリと言っちゃうところが痛快だ。
それにしても、我々は・・・いや僕は、なんと平板な思考形態なんだろうと自己嫌悪に陥る。ものの本質とは何か、事の正邪はどちらか、すべてが曖昧で確固たるものが乏しい。
もっと研鑽しなくちゃいけないな。
その西部氏が・・・
人間の記憶というのは、曖昧なものだなとつくづく思う。
歳のせいでもないだろうが「背景の・・・」で、過去にも書いたことを再度書くこともある。
その内容を比べてみると、微妙に違いがあるのがわかる。
過去の事実も、時とともに変形してゆくものなのかもしれない。
個人的体験を題材にした小説が、時に色濃く脚色されて行くのに似ているのかもしれない。
僕は、甘いと言われるだろうが、基本的に人間〜性善説派だから、あまりひとの悪口を書くことはないのだが、同じことを相手がどう捉えていたか、どう感じていたかは、これまた別の問題なのだろう。
異性であれ、同性であれ、今この年齢になって、ともに酒を酌み交わしながら語り合うことができたなら、どんなに嬉しいことだろう。
でも、そう思う人たちの中で、あのひともこのひとも・・・もう逢うことのできない人がいるというのも悲しい現実だ。もちろん音信不通の人もいる。所は知っているけどこちらから語れない人もいる。
結局はまた、この半バーチャルな世界で再会するしかないのだ。
小学校時代・・・
「あそこは行っちゃダメ!」という場所へ、僕は普通に遊びに行って、ワルと言われていた彼のお母さんに、夕ご飯までごちそうになって帰った。
教師の父は、そのことを耳にしていたのだろうけど、僕には何も言わなかった。
同じく小学校時代・・・
休みがちの同級生の家へ、学級委員として誘いに行った。あの時代はほとんどが粗末な身なりではあったけれど、彼は特別だった。僕自身は、そこまで深くは考えなかったから、言わば軽い気持ちで誘いに行ったのだが・・・彼の鋭い眼差しに跳ね返された。お母さんの目は、彼ほどではなかったけれど、それでも拒絶する目に変わりはなかった。僕なりに、「僕は甘いな・・・世間を知らなすぎるな・・・」と落ち込んだ。
中学校時代・・・
卒業を目前にした予餞会。各クラスがそれぞれに出しものをした。コーラスあり、寸劇あり、いろいろだった。僕のクラスは、僕自身の統率力の欠如もあって、まとまらなかった。そんな時、クラス一のワルだったU君が、「オレがやる」と申し出た。みんな驚いたが、やがて拍手が沸いた。彼はヘアースタイルもそっくりにして舟木一夫の「高校三年生」を歌って拍手喝采を浴びた。
高校時代・・・
僕自身が落ちこぼれた。・・・というか、自身の意志で意図的に脱線した。進学校の中での独自路線は徹底的な晒し者になった。職員室で「壁に向かって立っておれ」と言われたこともあったし、クラスメートの冷ややかな目線も辛かった。救いは担任のK先生と隣の席のKさんだった。先生は、あらゆることを踏まえた上で理解してくれて陰ながら応援してくれた。Kさんは、賢いけれどぐれた様なところがあって、妙に僕の心の奥を見透かしていた。彼女も親が教師だったのかもしれない。後年、同窓会で一緒になったとき、彼女に言われた。「オウム事件の時、てっきりわたなべ君だと思ったんだから・・・」と。
無意識のうちに、僕は人の心を、特にその裏側を見てしまう、見えてしまうところがあったのかも知れない。