「執拗」という言葉がピッタリの人がいる。そうとしか言いようのない人だ。
これでもか、これでもか・・・と畳みかけてくる。それがまた指導的立場の人間だ
と、これほど厄介なことはない。被害者は深刻極まりない。あえて「犯人」と言お
う。この犯人はもはや病的だ。僕も高校生の時、経験した。英語の教師だった。後
に、十歳年上の兄に話したら、「ああ、アイツか・・・あれはヒドイ!病的だ」と
言った。僕は半登校拒否状態に陥った。同業の父が呼び出されて、父も驚いたくら
いだ。
うんと時を経て「セッション」という映画を観た。これに登場する楽団の指揮者
がまさにこういう存在だった。この悪魔的人間に雄々しく立ち向かうのがドラマー
の主人公だったわけだが、共感というより嫌悪感の方が重くのしかかってきた。
物事の極度の追及は病的となる。そして度を越して異常となる。精神病だ。

今、信仰二世、三世の問題で世間が揺れている。そこに起因して一国の総理が殺されたのだから、単純な問題ではないことは明らかだ。僕は団体は全く違うが、主体側と信者側の両方を体験しているので、一概に結論めいたことは言えない。団体そのものの内部でも法廷闘争は頻発していた。僕はその混乱の中で際どく脱走したのだ。一般社会に戻った後しばらく、僕はマインドコントロールの恐ろしさを嫌というほど味わった。もっとも顕著だったのが、二年後れの大学受験をした時だった。ごく単純な小論文だったのに、それが書けなかったのだ。頭に浮かび上がってくるのは、教義的な文章ばかりで、全く世間常識的な文言が浮かばなかったのだ。その屈辱的な挫折に始まり、本当の意味で普通人に戻れたのは、更に三、四年後だった。心の住む世界が対極にあるわけだから無理もない。だから、今話題の教団もちょっとやそっとでは、はい、終わり!とは行かないはずだ。端から見ればの洗脳も、当事者にすれば超真面目な信奉であって、少々のことで揺れ動いたのでは、全うな信者とは見なされないわけで。

子供たちの安心、安定の生活は、普通にとらえれば結構極まりない話なんだろう
けど「非情」とも捉えられかねない表現だが、「波乱万丈」こそが、本当は当人に
とって「幸い」なことではなかろうか?もちろん「時代性」も絡んでくるだろう。
欲望的にバブル時代を生きた人たちが、果たして本当の意味で「しあわせ」かどう
かは、大いに疑問の残るところだ。
よく言われることだが、我々団塊世代より10年上の世代の人たちは、大方が前述
の恩恵に預かっているはずだ。それが羨ましいという意味ではなくて、やはりそこ
には表面的な軽く薄い「幸せ感」しか伝わってこない。加えて言えば、それらすべ
てがあたかも自分だけの実力、力量にゆらいするものだと思い込んでいる人がいか
に多いかということだ。
