誰とは言わず、それぞれの人生に「時代性」は欠かせない。
こんな時代だから…とか,あんな時代であったなら…とか、誰しも思うところだろ
う。よく、「大正時代は良かった!」という話は聞く。昭和の戦後生まれの僕でさ
え、大正ロマンとか聞き覚えがある。明治の人は気骨があったとか、耳にするけれ
ども、昭和と言えば、六十年以上もあったわけだから、戦前、戦中、戦後という区
分けをされるのも必然的なことだろう。
自分の世代以外だと平成、令和となるととんと時代感覚は浮かび上がって来な
い。リアルというのは振り返る余裕を抹殺してしまうのだろうか。
著名人が消えてゆく。名もなき人たちも消えてゆく。
生あるものは、必ず死ぬ。それを言い聞かせ、言い聞かせしても、
どこかで自分はまだ死なないと思っている。

「善因善果、悪因悪果」と言うが、さっきコレをしたからすぐに結果が出るという
ことばかりではない。何十年の時を経て、出てくる答えもあるわけで・・・。
しかし悲しいかな、そうした時の流れは、「因」なるものを忘れさすことも多々
あるわけで・・・。
さらに怖いことには、何十年も経って出てきた答えの贖罪を試みようとしても、
当の本人が呆けてしまったのでは、それも叶わないわけで・・・。こればっかりは
代行というわけにもいかない。
善行と悪行・・・これは足し算、引き算が通用しない厳格な世界だ。「これだけ
悪いこともしたけど、これだけ善いこともしたのだから引いてくれ」が通用しない
世界だ。善悪ともにやったことはやったこととして、そのまま厳然と残る。

この季節になると、つい口ずさむ歌がある・・・
♪僕を忘れた頃に
君を忘れられない
そんな僕の手紙がつく
くもりガラスの 窓をたたいて
君の時計を とめてみたい
あゝ僕の時計は あの時のまま
風に吹き上げられた ほこりの中
二人の声も 消えてしまった
あゝあれは春だったね
・・・・・・・・・・・・・・・
途絶える音信というものに、必要以上の探りを入れるのは如何なものかと思わない
でもないが、習性というものは簡単には改まらない。
♪僕が思い出になる頃に
君を思い出にできない
そんな僕の手紙がつく
風に揺れる タンポポをそえて
君の涙を ふいてあげたい
あゝ僕の涙は あの時のまま
広い河原の 土手の上を
ふり返りながら走った
あゝあれは春だったね
・・・・・・・・・・・・・・
