愚痴を言わナイ
腹を立てナイ
物事を先延ばししナイ
何事も後悔しナイ
でも・・・ただ一つ
遠い昔に、想いを馳せる
近年の僕の最大テーマは、
「ひとのせいにしない」
「全ては自己責任」
これに尽きる。
どん底と思える世界も、
暗闇の中に、一筋の光を見る。
お天道様はお見通し。
おのれ可愛さは突き放される。
お天道様は母と表裏一体。
姿勢を正して、顔は朗らかに、しっかりと目を開き、人や物事をあたたかく見つめ、丁寧にお話を聞き、やさしい声で言葉をかける。
この世界に人間として生まれてきた今回の自分、生きている今。かけがえの無いチャンスを逃さず、その命を最大化することが真実の仏教の説くところです。
そのために、自分の所作振舞いを改良してゆく、練り上げてゆく、磨き上げてゆくことが大切です。性格でもなく、気分にも任せず、自分の行動、顔の表情から声色に至るまでをフラッシュアップしてゆくことが仏教の修行なのです。
お祖師さまは、
「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」
「命と申すものは、一身第一の珍宝なり」
「命と申す物は、一切の財の中に第一の財なり」
とお諭しです。
果てしない宇宙の中で最高最上の宝物が自分に宿る「命」であり、これほど価値のある珍しい宝物はあり得ないと断言されています。その上で、この世に生きている間、命を最大化する道を示されました。
鎌倉期、数多くの宗教家が居ましたが、ここまで明確に「いま」「ここ」で生きる大切さを説いた宗教家はいません。世界中の開祖や教祖は諦めや恐怖、妄想や幻想、欲望や野望から教えを説きました。
ブッダとお祖師さま・日蓮聖人は全く次元が異なります。この世界が何とかならなければ、あちらの世界も何ともなりません。妄想から生まれた宗教を信じろことほど命の無駄はありません。
お祖師さまは、自分に迷わず、自分に負けず、命を最大化する道を説かれました。死ぬために生きるのではなく、生きるために死ぬ覚悟をする。命を最大化するために必要なことを教えておられます。
今生人界にめぐり逢えた奇跡。ただ一つの命、たった一度の人生、みんなでこの一日一日を、大切に、生きましょう。たくさんの現証の御利益を顕しましょう。
「教主釈尊の出生の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
お釈迦さまがこの世にお出ましになった本当の目的は、人々の所作振舞、アクションのすべて、行動や言動、態度や挙動を改めさせることにあったとお諭です。
人間に生まれてきたのに、御法にお出値いできたのに、ブスッとしていたり、姿勢が悪く、起きているのか寝ているのか分からない、見るからに感謝も感動もないような人であったならば、佛立仏教が全く分かっていないということになります。
ご信心していたって悪いこともあります。思い通りにならないことの方が多いです。
しかし、ありとあらゆる出来事を受け止めてもなお、「ありがとうございます。」と言えるのがご信心。頭より心です。感情より意志です。意志とは信心のことです。悲観は感情、楽観は意志。信心で行動を起こす。行動して結果を出します。行動を起こして結果を待つのです。
正しいことを真実に、素直正直に、まっすぐに、やっていこう。とことん、とにかくやりましょう。末法は、誰が本物か選手権です。頭の中だけではダメ、棚からぼたもちは無い。待っていてもダメなのです。
よし、やろう。やるしかない。素直に、正直に、真面目に。動け、動けるならば、やれ、まだやれる。それしかないのです。
御教歌「信心は所作振舞いにあらはれて ものしりくさい所にはなし」
信心は、所作振舞いに現れる、ものしりくさい、頭でっかちなところにはない。素直で正直な心、偏らない、疑いの無い、迷いのない、まっすぐな想いで、行動することこそがご信心なのです。
ですから、その人のご信心前は、お給仕の姿、お看経の姿、御法門聴聞の眼差し、言動、表情、歩き方、動き方を見ていたら分かるのです。
佛立仏教を再興した開導聖人は、ものしりになる、ものしりになろうとすることが、習い損じの根源であり、分裂や衰退の要因であり、謗法や罪障に直結すると結論づけられました。
やるしかないのに、やれない。分かっているのにやめられない。これらも頭でっかちで、ずる賢いからです。それもこれも思い切り払って、行動を起こすのです。
理論も大切ですが、究極それが分かったら、自ら行動に現れます。「日蓮が法門は第三の法門なり」という究極の御法門が分かると、お寺や家の中から飛び出して駆けだす、走り出さずにはいられないのです。内側にこもって止まっているようでは、お祖師さまの教えが少しも分かっていないことになります。
突き詰めれば、自分こそ救い主、全ては自分次第、自分に負けるな、自分に溺れるな、ということです。
この命を授かった自分が大切。しかし、自分の眼は謗法と罪障に曇っていて、頼りにならない面もある。だから御題目をお唱えして、御本尊に自分を映す。素振りのようにこの作法を繰り返す。決して基本信行を忘れない。これも命を最大化するため、今生人界の生命を輝かせるためなのです。
ダンマパタという古い経典には、次のような言葉があります。
「みずから自分を励ませ。自ら自分を反省せよ。修行僧よ 自己を護り 正しい念いをもてば 汝は安楽に住するであろう。実に自己は自分の主であり自己は自分のよるべである。ゆえに自己をととのえよ。商人が良い馬を調教するように」
ブッダのご遺言にある「自灯明」「法灯明」と同様の意味です。
「自らを灯明とし、自らを依処として他人を依処とせず、法を依処として、他を依処とすることなかれ。」
これほど尊い信仰はありません。信じ仏法に御出値いして、謗法や罪障の雲が消え、自分に負けずに生きることができたら、まさに命の最大化、これほどの幸せはありません。
やるしかない、そんな年です。頭の中や、もっと言えば心の中身よりも、ご信心という意志を軸とした行動を重視すべき時です。
結果を出すためにも行動です。自分のありとあらゆる所作振舞を改良しましょう。
やるか、やらないか、自分次第の一年です。
(妙心寺報 一月号 巻頭言 長松清潤御導師)
僕は暗いバス停で待っていた。
家に灯りはなく、その暗さが淋しさを増幅させた。
一台、また一台とバスは停まるが、父は降りてはこなかった。
新しい母には馴染めなかった。
僕が拒絶したわけではなくて、あの人が近寄らなかったのだ。
「あの人」と呼ぶ・・・そこに僕の心が表出されていた。
溜まりに溜まった亡母への思慕。
まだ小学校入学前の僕に、否応なしの自立が求められた。
僕は、とぼとぼと歩き、灯の無いわが家の戸を静かに開けた。
暗闇の中で膝を抱えて、顔を埋めて眠った・・・。
夢の中で、母に逢うために・・・。
待っているだけでいいのかい?
じゃあ、追いかけるのがいいのかい?
思考は薄っぺらの脳内を駆け巡る
自分A対自分Bでじゃんけんをした
何回勝負しても決着はつかない
AもBも自分だが
いかにも自分が強すぎる
ここで登場!
超客観視する自分様
答えは明快そうで複雑
是々非々、時と場合、押してもダメなら引いてみな、捨てる美学
天を仰ぐ
そして目を瞑る
暗闇の中に光明を見る
そう、それが答え
人間は肉体があるゆえ経済関係をまぬがれぬのである。どんな宗教家でも、肉体を
もつ限り、経済関係から離れられない。いかに高僧聖僧といえども、人から捧げられ
たものを食わせてもらうのだから人一倍感謝の念が深くなくてはならぬ。もしこの点
を忘れたら、一瞬にして堕地獄である。
森 信三
童話や寓話の中に、人生の教訓を見出す。
己は対象外人物だと奢る事なかれ。
「アリとキリギリス」「うさぎと亀」etc.
兎角、ショートカットや一攫千金的な方へ走りがちだけれど、まずは地道に
一歩一歩を踏みしめて・・・登山の登り始めのように・・・。