「わたしたちも含め、あの時代、全共闘の運動に走った若者たちの心の中に、一瞬にしろ宿ったことのある何かについて、一時の気の迷いであり、ハシカのようなものである、と後年、せせら笑うことは誰にでもできる。全共闘の思想なんて、エリート意識をもつ高学歴連中の愚かしい妄想に過ぎない、だってそうだろう、やつらは後になって権力と手を結んだんだぜ、命を賭けてそういう生き方を拒絶していたはずのやつらが、平然と体制側にまわったんだぜ・・・・・そんなふうに言うことは誰にもできる。
だが、本当にそうだったのか、それだけだったのだろうか。そんなことをわたしはいまになってもまだ思う。
わたしにとって、大場の思想が魔物のように魅力的だと思えた時期があった。そこにはイデオロギーだけではない、文学があった。詩があった。それらが、一時期、わたしの精神の礎になってくれたことは、否定しようのない事実なのだ。
たとえ、死や殺戮を正当化するために文学が都合よく利用されたに過ぎなかったのだとしても、わたしの中にあった未熟さ、幼い情熱がそうさせただけのことだったとしても、わたしは大場の考え方、大場が口にする言葉、その表現に溺れた。
(小池真理子「望みは何と訊かれたら」)