背景の記憶(305)

 アルバイトを終えてバス停までの帰り道、雨が降り始めていたが、それでも僕は殊更ゆっくりと歩いていた。そう殊更に。本通りとは違う細い道なので、通る人もまばらだ。バス停まであと数百メートルとなった時、後からコツコツコツと靴音が聞こえてきた。この靴音に僕は確信した。それはバイト先で気になっていたYさんなのだ。これまで何度か後ろから見かけたことがあった。僕はバスだけど、彼女は電車であることも知っていた。

 ふり向きたい気持ちを抑えて歩いていると、不意に赤い傘が頭の上にかけられた。無言だったけど、まるで「濡れますよ」とでも言うように。横顔を見ると目が優しく笑っていた。「ありがとう」の気持で、僕はコクリと頭を下げた。背丈が違い過ぎるので、僕は傘を受け取って彼女に半分以上被るようにして歩いた。

 言葉を発しようと思ったけど、それを遮るかのように駅に着いてしまった。バス停の屋根の下で、僕は傘をたたみ返そうとすると、彼女は初めて言葉を発した。「私、折り畳み傘があるから、それ使ってください。バス降りても歩くんでしょ?」有難い言葉だった。「じゃ、遠慮なく・・・」と言って、二人は別れた。

 バスに乗って、場違いに思える赤い傘を手に持って、窓に映る僕の顔は少々にやけているように見えた。前の席に座っている女性が、傘と僕の顔を見て、ちょっと笑ったような気がした。でも、僕にはそれさえも嬉しく受け止めることができた。バスを降りたら、ルンルンルンなんてスキップでもしそうな気分だった。



 紅い傘.png

posted by わたなべあきお | comments (0) | trackbacks (0)

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