契縁録

 私は森先生に直接お会いした事はありませんが、父(渡部一夫、松江市在住)のとっている「実践人」に惹かれて、一読者とならせて頂きました。

 松江南高校在学中に家を離れて、ある宗教団体の専従者となり布教師を志しましたが、純粋さだけでは打開し得ない壁にぶつかり、実社会の中に答えを見出すべく京都へ飛び出したのが二十一歳の時でした。しかし、この修行中における下座行は、今日の私を形成する大きな要因であり、すんなり大学へ進んでいたのでは修得できない貴重な体験でした。

 話が前後しますが、母は私が三歳の時病死し、私には母親の思い出は何もありません。ただひとつ脳裏に焼き付いているのは、納棺時の白装束の母の姿だけです。この心の中の母は、生きて側にいる母(比較できるわけないですが)よりもはるかに強烈に私を制御する力を持っています。死んでしまったからこそ、普通では味わえない大きな母の愛情を受けて、私は生きているのかもしれません。

 私は父に叱られたことも殴られた覚えもありません。私がどんな回り道をしていても、父はじっと遠くから見つめていてくれました。しかし人生の節となる時には必ず手紙をもらいました。ある時はハガキに「秋夫に直言する・・・」と数行にして泥沼の中から私を引き上げてくれ、ある時はワラ半紙に己をさらけ出した心のうたが綴ってあり、又ある時は冷徹に見透かした温かい忠告でした。これらはすべて、私にとって何物にも代えがたい父そのもであると思っています。

 今三十半ばにありながら、未だ人生の何たるかをコトバとしては分かった様なフリをしていても、真に掴み切れない自分がもどかしく、金、金、金の世の中で、正に利益追求の職場に身を置きながら、父の仕事であった「教師」という職業が、とても気高く、羨ましく思えます。今更なれっこないのに憧れを抱く自分が、悔いる思いを通り越して、不思議に思えてなりません。

 五十五年には長女が生後間もなく重病にかかり、その入院看護の生活を経験して、いつの間にか利己的な甘い生き方に堕していた自分に気付き、現在は至らぬながら、森先生の御教えに励まされつつ、「化他即自行」を信条として、一家五人力強く生きて行く決意でございます。

                森信三先生「契縁録(二)」

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父は書き残している・・・

 私はせめて・・・長男の喜久や素子は考えなかったが、三歳の秋夫だけは、このままでは何も残らないだろうととっさに思い、抱き上げて、この子に魂あれば、母の最後の顔を心に焼き付けよと抱き上げてみせたのだったが・・・

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 幸子の命日は九月一日である。八月いっぱい病み続け、九月にはいるとぽっくりと逝った。まるで、学校関係の多い近親の関係を慮るかのように。
 その日はいうまでもなく、大正十二年九月一日午前十一時五十何分、関東大震災の防災記念日である。が、私にとって亡妻記念日である。しかもそれは、命引き取る最後まで口にした愛児秋夫の誕生日八月末日を辛くも超えて、それだけが愛児への最後の心やりとしか思えない奇特な命日となった。

posted by わたなべあきお | - | -

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