彼女との涙の別れから程なくして、今度は横浜の伯父から連絡が入った。横浜への帰路、京都駅で会おうということだった。何事かと思って会ってみれば、「あんたの兄さんと一緒に働かないか?」という誘いであった。兄は自営業に失敗して、叔父のところで世話になっていたのだった。熱心な誘いではあったが、丁重にお断りして別れた。
そして間を置かずに、今度は大津の伯父から連絡。行ってみると、勤め先を退職して字自分で会社を起こすとのこと。で、その手伝いをしてくれないかと・・・。
何ともこの時代のぷー太郎は標的の的そのもの。話を聞けば、生まれ故郷の隠岐の島を第一歩にするつもりとのこと。叔母や従姉妹たちの懇願もあり、僕はこの話に乗ることにした。
母方、父方の違いはあれ、叔父、叔母には格好の標的であったようだ。目まぐるしい展開の中、僕は十数年ぶりに生まれ故郷に帰ることになった。
頭でっかちの屁理屈屋の僕を待っていたのは、とんでもない世界だった。叔父の仕事は港湾建設で、波止場づくりがメインだった。鹿児島からの季節労務者や潜水夫等、総勢十数人の集まりだった。事務員兼、現場監督兼、潜水夫の命綱持ち兼、ダンプや小型船の操縦(無免許)等々、何でもやらされた。夜には、飯場で外国語のような鹿児島弁の中で、焼酎に付き合わされた。職人さんたちには「あきちゃん、あきちゃん」と可愛がられた。みんなが寝入ったころ、波止場に寝っ転がって星空を見るのが常だった。まさに(満天の星空)手の届くような光景に我を忘れた。
何カ月か経ったころ、一枚の暑中見舞いが届いた。差出人は姓だけが書かれていた。そして「結婚しました」と添え書きがしたためられていた。その流れるような字体から彼女からだとすぐに分かった。住所は誰に聞いたのだろう?親父だろうか?全身の力が抜けたような、どこか安心感が沸いたような、そして堪らなく淋しいような、複雑な気持ちになった。
毎夜、「貴方の幸せを祈りましょう」的なやるせない気持ちで、僕は星空を見続けて眠った。
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