「亡霊 弔いを待つ」
この歳になると、亡き人の面影が偲ばれて、回向の席に座る。
時代の流れか?音信の途絶えた人たちの如何に多いことか・・・。
又しても、年末近くにあの葉書が届くというのだろうか。
親戚としての、友としての存在を認められず、数年経ってから、その死を知ること
も少なくない。
逆を考えれば、自分の家族も同じことをするのかもしれない。
いや、と言うよりも・・・夫の、父の交友関係など知らない〜と言うことだろう。
家族は責められない、嫌な世の中になったものだ。
手紙やハガキなど忘れ去られた存在かもしれない。
つい・・・妄想を抱く。一カ月くらい旅に出て、この人!と思う人たちの所を
巡ってみたい。あるいはその時、彼の、彼女の死を知ることになるかもしれない。
その想いに至った時、何と不義理をしている人たちの多いことか。
まさしく、合わせる顔があるのか!と、己を𠮟責する。
僕は口ずさむ・・・「私は今日まで生きてきました 時には誰かの力を借りて
私は今日まで生きてきました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
どこかで誰かの声がする。そう、僕ですよ。あの時の僕ですよ。
お盆と言うこの時に、僕は亡き親と、亡き兄姉と、友人・知人との語らいの時を
持つ。
Trackback URL : https://watanabe.xtr.jp/sb.cgi/2730
コメント