「おれは風が向うから吹いて来て、そして吹き去ってゆくのを感じていた、そのうちふと、いま自分に触れていった風には、二度と触れることはできない、ということを考えた、どんな方法をもちいても、いちど自分を吹き去っていった風には二度と触れることはできない・・・そう思ったとき、おれは胸を押しつぶされるような息苦しさ、自分だけが深い井戸の底にいるような、真っ暗な怖ろしさに圧倒された」
「たいせつなのは身分の高下や貧富の差だはない、人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役立ち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います。人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません、そして、死ぬときには、少なくとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います」
「百姓も猟師も、八百屋も酒屋も、どんな職業も、絵を描くことより下でも上でもない、人間が働いて生きてゆくことは、職業のいかんを問わず、そのままで尊い、絵を描くということが、特別に意義をもつものではない、・・・私はこう思い当たったのです、わかりきったことのようですが、私は自分の躯で当ってみて、石を担ぎ、土運びをしてみてわかったのです、そうして、初めて本当に絵が描きたくなって帰ってきたのです」
山本周五郎