背景の記憶(202)

ある日のこと、社長夫人に声をかけられた。もちろん他の社員には分からないようにだが・・・。夜にというわけにもいかないので、勤務中だけど一時間だけ何とかなりそうなので、会社からはちょっと離れた喫茶店で会うことにした。

そのころにはもう僕への疑いの目はなくなっていて、むしろ好意的に受け止められていた。それに探りを入れるというようなものでもなく、奥さんなりの悩みの吐露と受け止めた。「こんなこと誰にも言えるわけじゃないのでね・・・嫌な事聞かせてごめんなさいね・・・」

僕はひたすら聞き役に徹した。23歳の人間にしては、僕には凝縮されたような強烈な体験が刻み込まれていたから、こんな話もすっと受け入れられる何かが僕の中には存在していたようだ。

意見とか忠告とか、そんなものは必要ない。そう思って僕は真剣に奥さんの話を聞いた。心の中では(こんなイイひとを悲しませちゃいけないなぁ・・・)と呟いていた。

「なんか・・・話したら、ちょっと気が楽になったわ。ごめんなさいね、仕事中に・・・」僕は「立場上、どっちがどうというようなことは言えないですけど、事の善悪くらいは分かっているつもりです。僕がこんなこと言うのもなんですが・・・明るく生きてください。きっといい結末がやってきますよ」と言って奥さんと別れた。

ハンドルを握りながら・・・「世の中、教科書通りにかいかないもんだな」とわけの分からない言葉を反芻していた。その年までの僕の教科書と言えるものは、いささか純粋過ぎたものだったのかもしれない。

posted by わたなべあきお | - | -

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