わたなべあきおWeb

Ne・o−activity VOL.5  2003.6

BEGINNER’S LUCK
 私が所属するあるボランテイア団体の大阪地区の責任者に、私と同世代のM氏が選出された。前任者は年配の経験豊かな方で、その後を引き継ぐのは、なかなか気苦労の多いことは想像出来た。今年度の初会合の就任挨拶の中で、彼は「beginner’s luck」と言う言葉を用いて、盛会のお礼に、文字通り(初心者の幸運)を強調して、自らの謙遜と先輩の功労を讃える、見事なスピーチを行った。横文字というのは不思議な力を持っているもので、この言葉がなければ、社交辞令的なつまらない挨拶で終わってしまい私が受けたほどのインパクトはなかったであろうと思われる。勿論使いすぎると軽く受け流される危険性もあるのだが・・・。しかし本来この言葉は「魚釣りや賭け事などでよくある素人の幸運」であって、彼がそこまで自虐的に、不本意な人事を皮肉って発した言葉と取るのは、私の考えすぎであろうか。いずれにしても滑り出し順調の彼の活躍と幸運を祈ると共に、私の心の中でライバル意識の燃え上がるのを覚えた。

世情の厳しさよ
 不景気風もここまで深刻を極めると、私の身のまわりにも様々な被害者が現れ始めてきた。誰を加害者と特定して言い切れないところに、何とも言えないもどかしさを感じざるを得ないのだが・・・、ひとり政治のせいで済ませて良いのだろうか。どこかよその国だったら暴動間違いなしと思うのは私だけだろうか。日本人の偉さなのか、我慢強さなのか、それとも特有の諦めか・・・。
 事例その一、我が家の近隣の資産家が夜突然訪れて、「明日引っ越します」と言われた。「えっ・・」で終わりである。明くる日からショベルカーが入っていきなり取り壊し工事が始まってしまった。理由は大体想像出来るものの、日本で資産家が三代持たないと言うのは、こういう事かと変に感心したり、同情したり。
 事例その二、同業者で近所のO氏がこれ又突然居なくなった。伝え聞くところに依ると、多額の不渡り手形を掴まされた上に、原因不明の病気が重なり、夫婦は離婚、本人は小さなアパートで生活保護を受ける身だという。
 事例その三、京都でもあらゆる橋の下に青いテントが張り巡らされている今日この頃であるが、役所で福祉関係の仕事をしている義姉から「Nさんがホームレスになっている。」と連絡が入った。洋菓子作りの良い腕を持っていた彼なのだが、どんな事情が重なったのか。それにしても逆な意味で、そういうリストが作成されたり、管理されたり、郵便が届いたり・・・って、ちょっと首をかしげてしまう。何か順序が間違っている。
 事例その四、得意先のTさんから、切迫した感じの電話が入った。Tさんも昔からの資産家の令嬢である。聞けば、お父さんの病的詐欺行為によって、一ヶ月以内に家を明け渡さなければならないと言う。誰もが羨む贅沢な生活をしていたのに、正に一家離散である。全ての土地や借家、アパートを処分してもなお億単位の負債が残るという。一体全体どうなってるの?唖然として聞くのみである。辛うじて残った(登記上)一軒の借家への引っ越しと改修工事に「貴方しか言う人居ないから」と泣き付かれたわけである。

青春時代(1)
〜兄のこと〜
 様々な治療結果を経て、兄は祖父のもとへ、つまり隠岐島へ帰ることになっ た。祖父はこの頃半農半漁の生活と共に、叔父(父のすぐ下の弟)と回漕店を営んでいた。当時はまだ岸壁が整備されておらず隠岐汽船の船は、湾の中央に停泊し祖父が大きな手漕ぎ船を操って、客や荷物を迎えに行くのである。凪の日なら良いのだが、ちょっとでも時化た日は大変であった。下船の時海に転落した話は一つや二つではない。
今日のような高速船などまだなく、夜中に入る便もあった。入り江付近のボーと言う汽笛に起こされて、兄は祖父と一緒にこの過酷な労働に立ち向かったのである。身体を痛めるほどの肉体労働が、徐々に兄の複雑に絡み合っていた精神の細かな糸を、ときほぐしていった。そしてやがて、兄は健全な肉体と精神のバランスを自らの力で勝ち取っていったのである。勿論祖父や叔父達の助力無くしてあり得ないことなのだが、本人が何よりもぶつかっていったことに、私はある種の尊敬の念を抱く。自分に兄ほどの行動力があれば、又違った道が開けていたのだが・・・。

〜見習い〜
 同期の友達と、濃紺の背広も凛々しく新米布教師のスタートが切られた。まずは先輩青年教師の地で見習い体験講習が各地を廻って数ヶ月行われた。未だこの頃は仲間と一緒なので、半分旅行気分であった。田舎の澄んだ空気と、のんびりとした田園風景。こんなに星ってあるのかと思う位、まるで手が届くかと思うような満天の星空。自然の美しさ、雄大さ、果てしない宇宙の広がり、これ以上何を望むのかと自問するくらい、現実との大きなギャップを自分の魂の中で整理できなかった。
 そしてみんなと別れて、一人で送り込まれた岡山の地で、私は大けがをしてしまった。
先輩の運転するバイクの後ろに乗せてもらっていた私は、砂利道の大きなバウンドに手を離してしまい、かなりのスピードのまま、後方へ放り出されてしまった。一瞬どういう状況かが理解されず、そのまま気を失ってしまった。気がついたのは布教所の布団の上であった。時計と眼鏡で腕と顔に大きな傷があり、そして全身打撲で寝返りも出来ないくらいの痛みがあった。病院へ行かないことは、教義上の問題としてあったわけであるが、兎も角在宅のままけがの癒えるのを待つ日々が続いた。 
 そのための一ヶ月近くの間、私の世話をしてくれた人がいた。その人こそVOL.3のK/Aさん(神奈川)であった。布教所に家を提供していた御信者さんの娘さんで、お産のために帰郷しておられたのだ。本当に献身的な看護を受けて、私の傷もどんどん快方へと向かっていった。彼女が神奈川へ帰る日の朝、そっと枕元に座った彼女は、眠っている私の頬に口づけをして、目を覚ました私に、優しく微笑んで「早く元気になりなさい」と急にお姉さん言葉になって、部屋を出て行った。ほのかな恋心とでも言うのか、何とも言えない感傷がしばらく私の心を締め付けた。起き上がって「サヨナラ」を言おうと思ったが、勿論身体は動かせなかった。

〜初任の地〜
 いよいよ私にも(開拓布教)の名のもとに、初任の地が告げられた。意外にもその地は、メンバーのなかで最も遠隔地の広島市であった。広島は一週間から十日かけて歩いて行った、平和運動で馴染みの地ではあったが、いざ一人でとなると、内心後込みする自分があった。しかし、今更辞退する事も出来ず、勇躍出発の運びとなった。
 正しく片道切符のバス代と僅かばかりのお金をいただいて、国道54号線で広島へと向かった。布教所と言っても、四畳半一間のアパートの一室で、平和公園のすぐ東側の堺町にあった。風呂はなく、トイレと炊事場は共同であった。 
 先輩方が田舎で奮闘した布教形態とは異質の、都会独特の飲み込まれるような、拒絶され続けるような、何とも言い得ない空気の中にほうり出されたという感じだった。二三日は一種呆然として、なかなかマニュアルの実行とまでは行かなかった。
しかし、意を決して外へ飛び出した。教団の機関誌を持ち、地図で今日はこの地域と決めて、一軒一軒の訪問である。勿論今でも他宗他教の訪問を受けるように、そうそう話を聞いてもらえるものではない。機関誌を読んでもらえる人から任意のお金をいただいて、それがいわば活動資金(食費,アパート代etc)となるのである。食べられないことには、それ程苦痛感はなかったが、何よりも世の人々の対応は十人十色、百人百色で、これこそ修行と言い聞かせても、辛い場面の連続であった。公園や川岸に腰を下ろし、一本のアイスキャンデーを、天の救いの水の如く舐めながら、打ちのめされそうな自分と、奮い立とうとするもう一人の自分が、闘っていた。辛うじて打ち勝った自分がやがて腰を上げさせ、足を前へ運ばせた。交通手段も使えず自転車もなく、ただひたすら歩く、歩く・・・。まったくの「徒手空拳」・・・次第にそれが快感(悦び)となるくらい、ある意味私はその任に没頭出来ていたのかも知れない。己斐川の流れに様々な感情を抱いては流し、鮮やかな夕陽の中に身も心も投げ出して、しばし芝生の上で我を忘れた。夜道の見上げる星にだけ、誰かまうことなく万感を込めた涙を見せた。
 月末には本部へ帰らなければならない。成果らしい成果もないまま、最初の一ヶ月はあっという間に過ぎてしまった。全布教師が揃う会議には、我々新米も出席した。それぞれの活動報告がなされ、指導があった。男性同僚はみな同じ感じで、女性は複数での活動形態をとっていたのと、ある程度基盤づくりの出来た先輩の布教所へ派遣されていたので、数字的には上回っていた。何事も数字がものを言う世界。個人的にはそのことへの不信感はあるものの、大勢には逆らえなかったし、何よりも負け惜しみととられるのが嫌だった。数日間の本部生活で久し振りのおいしいご飯にありつき、鋭気を養って、また任地へと向かった。
広島時代の一年間。確かに表面的な数字は微々たるものだったかも知れないが、自分の内面形成から言えば、この一年間が自分に「核」を作ったと言い切れる。諂いのない、ごまかしのない、正直な素直な心こそが、最後の勝者となりうることを身をもって体得出来たと思う。一方で、信者獲得優先で、数字と金がものを言い、誇張された利益談の裏側の実態を見るにつけ、教団のあり方に批判的な心が徐々に芽生えつつあった。



《無言の仕事集団》
 
 前日から降った雪が夜半にはすっかり止んで、今日は嘘のような青空が拡がっていた。
家々の隅の方に消え残りの雪が吹き溜まりみたいに昨日の天気の痕を示していた。
その日の作業は、東京電力大田支社の事務所の内部改装だった。内部改装と言っても天井の張替えだけの作業だったが、何しろ五十坪以上もある部屋だったので大変だった。
机の上の書類や電話機はすべて別の棟に運び出されて机と腰掛けだけがガランとした部屋に整然と置かれていた。
 仕事は先ず机と腰掛けを隣の倉庫に持ち出すことから始めた。たった五人の人夫では決して楽ではなかった。昼食前やっと持ち出しが終わって昼食後は鉄パイプで天井を突いてボードと呼ぶ石膏製の天井板を小さく破りそれを庭の隅の所に運び出し、その後ボード取付のチャンネルという軽鉄の棹を引下す作業である。隅の方から徹底的に片付けないと天井屋の職人集団が来るとのことだった。
 取り敢えず十坪ぐらいの片付けが終わった頃、七八人の天井屋がドヤドヤやって来た。
彼等と前後してトラックが到着すると彼等はその積み荷のチャンネルの搬入を始めた。
三十才代の元気のいい男ばかりだったが何故か我々の作業を無視するように、すれ違っても何の言葉もない。頭を下げて挨拶する態度もない。(お前達の仕事がしやすいように朝から一生懸命やっているんだ、何も恩着せがましく云うのじゃないが黙っている法はないだろう。一人ぐらい常識ある人が居てもいいじゃないか)口に出かかった鬱憤をぐっと耐えた。
 五メートル以上はあろうチャンネルを五六本肩に軽々と載せて皆でせっせと運び入れる。一時間半もしてどうやら搬入作業が終わったようだ。責任者らしい人が腕時計を覗き込んで皆に水を飲む仕草をした。片付けられた人隅に八人は車座を作って思い思いにポットを出して飲み始めた。「さ、三時だ、我々も休もう」と誰となく云って彼等と離れた場所にドッカと尻を下ろした。そして何気なく彼等の方を見て私はびっくりした。
しきりに指先を動かしている人を見つめて他の人たちがにやにやしているではないか。(そうだったのか。聾唖者の集団だったのか。それじゃ声出して挨拶出来るわけがない、俺としたことが何と言うことだ。いや許してくれ謝る謝る)と云って自分を叱っ
た。
 十数分の休憩時間が終わると彼等は勢いよく立ち上がり、二人一組になって脚立を立て一人がチャンネルを持ってくるとチャンネルの両端をそれぞれ持って上から垂れ下がった鉄棒に固定して行く。次々とそれを伸ばして行く手馴れた仕事ぶり。四組がまるで競い合っているように仕事はみるみる捗って行く。不安定な脚立の上でしかも上を向きっきりの作業で首の根っこも痛かろうにと見ていると如何にも楽しそうにやっているのが不思議に思えてくる。まさに職人芸と云わずに何であろう。感心というより敬服したという気持ちだった。
チャンネルを積んで来たトラックに今度は我々が運び出した古チャンネルやボードの破片の積み込み作業へと変わった。
 夕方終業時間になって我々の天井突き破りや片付けは全体の三割ぐらいしか出来なかったが、明日天井屋が来るまでに彼等がすぐ取りかかれるだけの片付けはしておかねばならないと、天井屋が帰っても我々は一時間の残業を自発的にやった。この分だとまだ四五日は彼等との連携作業は続くだろう。

この仕事集団はどうして結成されたのだろうか。多分聾唖学校の同窓生か、或いは職業訓練所辺りで意気投合したのかも知れない。
 口と耳の外は目も手足も内臓も思考力まで、総てその機能を発揮しているこの堂々たる肉体、言葉が自由に出されないけど手話という意思表示、伝達の方法で不便を感ずる様子はない。言語障害という負の運命に真っ向から向き合って逞しく生きる姿勢、人一倍苦労して身につけたであろう確かな技術の腕、同類助け合いの固い絆。これ以上何の幸せを望めと云うのかと云わぬばかりの彼等の表情が私の目に眩しかった。
 健常者の我々が、同情めいた顔で(自分の考えをすらすら表現出来なくて、苛立たしさや情けなさに悩む事もあるだろうに)等と憶測するのは全くの的外れ、余計なお節介だと知って何か非常に救われた気になった今日の一日であった。

昭和五十九年二月末頃の話 (鹿児島・永田英彦)



大台讃歌 (三重、奈良の県境 標高1,200米の秘境)

寂なる大台の朝あけ
鼻孔をくすぐる馥郁とした大気の甘さ
紫紺の雲は足許を掠め山襞を這い廻る
幾百年の風雪に育まれた巨木の群生は
慮る事なく天を覆い地に溢る
耳もとに奏でる玲鳥の協鳴曲は愛しく
清冽な渓流に小魚の奔る
名も知らぬ高山植物の群落に足をとめ
人の手の汚れを拒む清楚を見る
ここ大台に人工の配色はなく 人為の雑音はなし
小高き処に立ちて小手を翳せば
茫洋たる緑の果つを知らず
十重八十重に連なりて天に対峙す
造物の神のダイナミックなのみあと人の胸に迫る
遙かに文明社会の汚濁と呻吟を睥?する秘境
ここ大台の威は賞せられるべし 大台の観は讃えられるべし

                 (鹿児島・永田英彦)



 青春時代(2)

〜二度目の大けが〜
 教団にボーイスカウト設立の動きがあり、我々世代がリーダー講習会に駆り出された。
青年の家で二泊三日くらいで行われたと思う。例の敬礼から始まり、ゲームやロープ使いや、探検や・・・、あらゆるカリキュラムを詰め込まれて戻ると、早くも信者家庭の子供達が隊員として登録され、活動が始まった。しかし他の団とは異質の純粋なボーイスカウト精神が前面に出てこない裏事情は否定出来なかった。 
 ある夏休みの合宿の事。広場で目かくしをした鬼が廻りの人を捕まえて、その人の名を当てるというゲームをしていたとき、私が捕まり鬼の加減を忘れた力に振り回されて、私は頭から地上に打ち突けられて失神し、まる二日間昏睡状態が続いた。勿論後で聞いた話ではあるが・・・。意識が戻った日、枕元には父の姿もあった。多くの会話は無かったが心配の様子はひしひしと伝わってきた。後頭部に大きな石が入っているかのような重い痛みがあった。この痛みには長い間苦しめられることとなった。ちょっと運動をしただけでも後頭部に鈍痛と吐き気を覚えた。このけがの時にも宗教性と医学的治療との問題があった。その是非を語るにはあまりにも命題が大きすぎる。

〜性の暴発〜
 若い男女が共同生活を営むという形態の中で、(性)の問題は避けては通れない重大な問題であった。しかし、信仰というものがもたらすある種の(自制心)と一方の性行動に対する(罪悪感)が奇妙なバランスを生んでいた。特に青年教師方の意識は深刻で、将来の生活設計も絡んで、それぞれの相手選びが秘密裏に行われていた。しかしこれは隠せば隠すほど判ることであり、教会全体にその空気は蔓延していった。勿論正式に結婚に至るカップルも誕生していったのではあるが、まだ二十歳そこそこの我々世代にはまるで導火線に火を点けられたように、一気に暴発して行った。傍目を憚らない直接行動も出てくるに及んで、教会全体の雰囲気は、神聖なる場とは程遠いものとなって行った。いやむしろ神聖なるが故に対極に位置する、本来人間が持ち合わせている愛欲・肉欲部分が表面化してきたのかも知れない。それを正当化、美化しようとすればするほど赤い糸は縺れに縺れて行った。
 そう言う私も例外ではなかった。私が積極的と言うより、彼女自身に年齢的な焦りがあった。冷静に考えれば全く先の見えないふたりの関係なのに、まるで今しかないというような性の衝動が、沈着な将来を見る目を打ち消していった。いやむしろそこまで考えてしまうことが実は恐しかったのかも知れない。表面的には何事もないかのように振る舞い、夕食後の僅かな自由時間がふたりの貴重な逢瀬であった。散歩を装い外に出て工事中の跨線橋の下が、ふたりだけの時と場となった。言葉もなくただ二人で居るだけで充実した心に浸れた。月も星も二人を優しく見守ってくれていると思えるほど、かつて経験の無い、甘く切ない恋の瞬間であった。彼女は九州博多の人で妹さんと二人で教会に入っていた。九州女は・・と言われる通り、勝ち気で積極的で、それでいて情が深かった。すべては彼女のリードの中に私はあったと言って良い。この頃の私には男としてのあり方、処し方は全くなかった。そのことに気付き、思い知らされ、突き落とされたのは、ずーっと後のことである。テクニックとまでは言わなくても、女性心をひく安易な術のようなものを、生い立ちの中から自然に持ち合わせてきていたのかも知れない。
二人の関係が進む中、彼女の妹のMさん(1つ上)や同級生のEさんの私に対する強い思いなど、恋は盲目と言うけれど、私に解ろう筈もなかった。Mさんは姉さんとは全く逆の性格でおとなしく優しくほんとに博多人形のような整った顔立ちの人だった。しかし芯の強さは姉さん以上だったかも知れない。Eさんはとても綺麗な人で同い年だが妹のような甘えたところがあった。ふたりの胸の内を後々伝え聞かされた時、私は複雑な心境であった。何もかも含めて(運命)の一言で片付けてはいけないかも知れないが、そうとしか言いようのない天の悪戯であった。
 そんな中、先輩Y君が教会を出ると言う事件?が発生した。

〜脱出の名人〜
 Y君は私の1年先輩で、超リーダー的存在であった。その彼が教会を出たわけで、教会内は大騒ぎとなった。やがて居所が分かり、彼の行動の因が判明した。彼はタクシー会社に入っていた。「実社会を知らない者が、何が人助けだ、何が人を救うだ。信者獲得主義に押し流されて、本当の意味の理想郷が実現するわけがない。何年か現実社会で暮らしてみて、違った角度からあらゆる事を観察したい」もっともな彼の言い分であった。普通なら連れ戻されるところだが、彼の存在の大きさがその手を拒んだ。彼の主張に一理あったからである。私も漠然としたものではあったが、単なる人間的純粋さやひたむきさや、教義至上主義だけではどうしようもない力の限界を感じつつあった。もっと色んな意味で修行が足らないと痛感していたところだった。そんな最中、教団全体でも大きな紛争(権力闘争)が勃発していた。対立する勢力双方から多数の説得工作部隊(?)が押し寄せ、あらゆるレベルで混乱の渦が巻き起こった。
 いよいよ行動の時かと、私自身も思った。優柔不断の代名詞のような私が動こうとしていた。父に後々「お前は、脱出の名人だな」と言わしめた用意周到な教会脱出計画を練り始めた。名人と言うからには、たった1回ではその称号は戴けない。1回目は家を出たとき。2回目がこの教会脱出。3回目、4回目は後述。
 その時期祖母が日赤病院に入院しており、いわゆる生命維持装置で持たせている状態で、私は約10日間、付き添いをすることとなった。親族の自己満足とは言い切れないにしても、機械装置につながれて意識のない、ただ呼吸をしているだけの祖母の姿は痛々しく可哀想であった。この時、(命)(生)(死)(運命)(宿業)(因縁)(正義)(使命)・・・いろんなことを思い、考え、悩んだ。
 祖母が亡くなり、葬儀の時、京都から亡母に近い親戚のおばさんが来ていた。おばさんの目的は他にあったようだが、それは兎も角として、誰にも気付かれない内に「京都行き」の約束が成立した。そして決行の日を一週間後と決めた。彼女にだけは打ち明けておいた。列車の切符手配、荷物の搬送準備(と言っても着るものぐらいだが)、違う自分がやっているのかと思うくらい、事は着々と進められて行った。何かに取り憑かれたように・・・。それもこれも、教会内が違った次元で混乱の中にあったからに他ならない。我々ごときの動きに目が届くほどの余裕も統率力も失われていたのである。何せ肝腎のY君が居なかった。先輩教師方は、失礼ながら、保身に走る人が多かった。人間ギリギリの選択の時、本質が出ると実感した。しかしそれを責める気は無かった。誰よりも自分こそが、大義名分は持ち合わせているものの、勝手な行動の実行途中であったのだから。
いよいよ決行の日が来た。荷物を親戚の家に車で持ち運び、簡単に事情説明をしておいて、すぐ引き返し、心の中で教会の皆さんにお別れをして、最後に彼女と目と目で別れた。そして最善のタイミングで誰にも気付かれることなく教会を出た。即、荷物を取
りに行き、松江駅から京都行きの列車に乗り込んだ。たしか「白兎号」だったのかな。
 滑り出した列車の窓から、見慣れた風景を感慨深く見送った。大橋川、中海、任地でもあった安来市、米子市・・・。まるで逃走犯のように、鳥取県にはいると、不思議な安堵感があった。暗黒界からの脱出とは言い過ぎだが、お世話になった先生方や、同僚には申し訳ないが、何とも言えない解放感が自分を包み込んだ。そして途端に睡魔に襲われ、かなりの時間深い眠りについた。平静を装う中に極度の緊張感の中でこの数週間を過ごしていたようである。
 眠りから覚めて、京都が近づくにつれ、今度はさっきまでとは違った緊張感が訪れた。全く独りぽっちではないという安心感はあったものの、これまで(向こうの世界)として捉えていた世界に飛び込む訳で、これまで「あなた方は・・・」と演説口調で傲慢にも上からものを言っていた自分が、小さくひ弱に思えてならなかった。

〜京都生活のはじまり〜
 おばさんの家は上京区の西陣郵便局の隣にあった。おじさんは時計や宝石のケースなどに使われている、ビロオド(別珍)の仲買業を営んでいた。京大生のアルバイトが2,3人いて夕方から検反や梱包、配送業務をやっていた。おばさんはお花とお茶の先生で特にお花の方では、家元の影武者的存在で、展覧会の殆どの作品をおばさんが生けていた。週に2,3回かなりの生徒さんが習いに来ていた。私も嫌いな分野ではないので見様見真似で花をいじったりしていた。流派の象徴である杜若(かきつばた)の清楚な作品が大好きだった。まだ右肩上がりの世の中で、優雅な(私から見れば贅沢な)生活ぶりと写った。
 しばらくの間は、店の手伝いをやりながら、夜は岡崎の英会話学校へ通う生活が始まった。今考えても不思議なのだが、この頃はまだ海外を視野に入れた方向性を持っていたようである。勿論京都にも大きな教会は存在していたし、ライバル的友の刺激的な言動も、私の心を揺り動かした。後に彼と二人でアメリカ・ロスへ行く約束をするまでに発展していった。しかし私の進むべき道が順調で平坦であろう筈がなかった。その様々な人生模様を、起伏の激しい山坂を、自分で「波瀾万丈」とか、「苦労」とか言う言葉で語りたくはないが・・・、以前にも書いたかも知れないが、二者択一を迫られた場合、私は必ず苦しい方、厳しい方を選んできたつもりである。これは私の宝。


〜英会話学校〜
教室のメンバーは7人で多彩であった。男性は京大の大学院生と3回生と私。女性は看護婦、OL2人、高校生であった。先生はキャサリン先生でオーストラリア出身の超美人先生であった。キャサリン先生は非常に厳格であった。レッスン中は日本語一切使
用禁止。発音にもその都度チェックが入った。ユニット1〜3ぐらいまでは余裕の雰囲気であったが、ユニット4,5あたりから、ボキャブラリー不足を痛感するようになった。何せ京大の大学院生と3回生である。適うわけがない。やや落ち込み気味の時、先生は優しかった。「Mr.Wはハートが伝わってくる」と言ってくれるのである。乗せるのが上手いなあ・・・。私も単純そのもの、すぐにやる気を取り戻すことが出来た。
それぞれに目的は違っていたが、外人教師について、早くマスターしたいという思いは皆同じくらい熱いものを持ち合わせていた。フリートークでは個々の人間性や生活環境がにじみ出て興味深かった。しかし誰よりも私の方が興味の対象であるのはすぐに解った。明らかに喋る内容や使う単語が他人と違っていた。これはちょっとしたショッキングなシチュエーションであった。初めてと言っていい位の、現実社会の体験である。
教会時代の無意識のうちに染みついた諸々が、私の身体から、言葉から発散していたようである。レッスンの帰りに、看護婦のHさんに呼び止められた。喫茶店で話している内、私は余程Hさんの方が飛んでいると思った。「わたし、フランスへ行くの」???
フランス行きと英会話?訳は聞かないことにした。この明るくチャキチャキの看護婦さんに当分の間、振り回されそうな予感がした。いきなり予感的中「今度の日曜日、奈良へピクニックに行こう!」ときた。何もかも彼女ペース。お弁当から何から準備OKで初デート?開始。どぎまぎしっぱなしの私の気持ちを知ってか知らずか、彼女はすこぶる快活でルンルンである。まあいっか、とばかりに私は彼女のリードにされるがままに、 かといって、結構楽しく過ごせた1日であった。
 半年後、キャサリン先生がご主人の都合で大阪へ行かれることになり、学校を辞められる事となった。おでん屋で送別会。先生は最後まで優しかった。外人コンプレックスを取り払ってくれた一番の恩人だろう。 
 新しい先生は、オンボロ車(スバル360)でやって来た。ブロンズヘアーのアメリカ人で、ステッファニー柴田と自己紹介された。旦那は日本人。でもそんな雰囲気の全く感じさせない、キャサリン先生とは対照的な、じゃじゃ馬娘という感じだった。この先生との出逢いが、私の性格改造(?)の大きなきっかけとなった。彼女が私を変えたと言って良い。
 レッスン後、車のエンジンがかからず、私は頼まれて修理。と言っても、電気系統の線をショートさせてONにしただけなのだが・・・。また停まると困るからと私が送って行くことに。車中、彼女曰く「旦那はロックバンドのリーダー。大好き!」とはばからずに言う。バンド名はたしか「村八分」とか言ったな。聞いたことがなかった。ブレーク前なのか、アングラなのか、解らなかった。何回目かのレッスンの後、彼女と約束事が成立した。学校外の喫茶店で、私が小学校のドリルを使って漢字を教え、彼女が英会話を教えてくれるというものだった。(個人教授)の始まりだった。
 余談ではあるが、ある日同クラスの高校生のNさんが「北山 修」がいると言ってきた。あのフォーククルセダースの北山 修である。彼は売れに売れた存在だったのだが、はしだのりひこ らとは一線を画して医者への道を確実に歩んでいると聞かされた。しかし、その作詞感覚は素晴らしく、それから後も数々のヒット曲を世に送り込んでいった。その彼は週に2回くらい個人レッスンに来ているらしかった。直接話は出来なかったが、その堅実さ、その柔軟さ、ひとや物事を見る心眼の鋭さに驚かされた。


〜倒産〜
 おじさんの店は順調そうに見えてはいたが、実は傾きかけていた。そのことを察知し始めたおばさんは、どうやら後継者選びの的に私に目を付けたようであった。次第に大阪や東京の得意先に、私が出向かされる度合いが増えていった。しかし、一度転げ落ち始めた車は、そう簡単には止められない。商売に全く素人の私にもそれくらいは解った。
何よりも丼勘定で収支バランスもくそも無かった。それに生活がやはり贅沢すぎた。会社の金と生活の金がごっちゃになっていた。ある時は朝一番の新幹線で東京へ行き、手形を受取、その場でその会社のエライさんに割り引きをしてもらって、飛んで帰って、 銀行に飛び込むと言うような危険極まりない芸当も何回かあった。
末期症状の足掻きにも限度があった。程なくして不渡り手形を出し、債権者会議が行われた。この頃まで知らなかったのだが、おばさんは正式の夫婦ではなかった。ものごとが窮まってくると、それぞれのエゴがむき出しになってきて、傍に居れない程の修羅
場も演じられた。結局法律上どうであれ、おばさんも鞍馬口近辺に有していた一軒の家を手放す事となり、生活の糧はひとりおばさんに懸かることとなっていった。
 債権者の一人である福井の織り屋さんが私に言った。「秋夫君がやるのなら、棚上げして応援しても良い」と。しばらく考えたが、正直自信がなかった。まして商売人になろうなんてシナリオは私の台本にはあり得なかった。丁重にお断りして別れた。
 おばさんは気丈なひとで、少々のことでへこたれるようなことはなかったが、私も今のままで良いとは思っては居なかった。せめて自分のことは自分でと思った。かといって正規の就職は選択肢にはなかったので、近所の人の紹介でアルバイトとして大丸百貨店に行くことにした。大丸の下部組織に商品の配送、搬入や清掃や従業員用のエレベーター管理をやる会社があり、そこにお世話になることになった。大学生やぷー太郎もたくさん居て、居心地は悪くなかった。何より週給制というのが魅力だった。
私はエレベーターの方に配属された。よく外国映画などに出てくる、あの手動式エレベーターである。外扉次に内扉の順で閉めると、電源がONとなり、ハンドルを操ると自由に上下した。低速用と高速用があり、各階のフロアーとのレベル合わせにはかなり
の練習を要した。荷物用の時はまだよかったが、従業員用の時は緊張した。なにせ(女の園)である。あがり性で照れ屋の私は、それなりの体験をさせられる事もしばしばであった。特に化粧品売り場の彼女たちには参った。売り場売り場でこうも性格が歴然と分かれるものかと感心したり納得したり。ぼやっとしたり緊張した時、ハンドル操作を過って最上階の天井裏にぶつけてしまう失敗も何回か犯してしまった。しかし此処には全国からありとあらゆる事情を持ったユニークな若者が集まっていた。


わかれたひとへ

僕が本気になったとき 気付いたとき
あなたはもう 僕の前にはいなかった

 あたりちらし 顔つきさえ変わってしまった僕を
 せせら笑うような あなたの結婚写真

年齢が どうだったのです
 世間が どうだったのです

親たちが取り交わした儀式に
 あなたは 飾り付けられた

それでもいいと 涙を流して しあわせ?

今思えば やはり 僕はこどもでした
あの日 わざわざ博多から ひとりでやってきた

あなたの決意を 賭けを 感じ取れないほど
  僕は 打ちのめされてしまっていた

  あの夜 なにも出来ないんだという 自制心が
  訣別 を決定的にしてしまったなんて・・・

あなたが すべてを捨て 二人だけの世界に
 賭けて やってきていたなんて・・・

いまごろ わかるようでは やはり こどもでした

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今や 僕は あなたの言葉どおりにしか生きて行けない
「どうしてそんなに苦しい道ばかりえらぶの」

安住はいやだ 真っ暗闇の中に 真実の光を見つけたい
  制服を着せられた 行動の無責任
 それが 僕の 最大の敵

(Update : 2004/01/11)