わたなべあきおWeb

Ne・o-activity  VOL..4  2003.4

 左利き
 毎週木曜日の夜は、私が所属する卓球クラブの練習日である。
2時間程の練習の後、帰りに必ず寄る居酒屋がある。味もそこそこで何より安いので、酒好き組の関所(?)となってしまった。余程の理由がないと素通り出来ない状態だ。
その店にバイトの男子学生が居て、先日話していたら、彼が私と同郷の松江市出身で、しかも学生時代に住んでいた雑賀町と言うのまでわかって、にわかに親近感を覚え、次からは「おい、**君」と呼ぶ間柄になった。彼は京大生で農学部とのことだ。話を聞いていると、学区制も変わったらしく、私は四中、南高だったのだが、彼は三中、北高卒業と言っていた。周辺開発によるドーナツ現象の影響なのだろうか。
 ある日、彼の仕草を見ていて、あることに気が付いた。そこで「**君、左利きか?」と聞くと、「どうして分かるんですか?」と言う。実は私も左利きなので、不思議なことに、テレビを観ていても、「あっ、この女優さん左利きだな」と分かるのである。勿論箸を使ったり、モノを投げたりする場面を見る前の話である。雰囲気というか何というか、特に後ろ姿なんかに現れているのだ。こればかりは何とも説明のしようがない。
 左利きと言えば、昔はかなり偏見があって、箸と書き手は徹底的に直された。地方によっては片端とまで言う処もあったらしいい。私の場合、頭のネジを無理矢理逆に回されたようで、未だ箸使いは下手くそだし、字も全部に力が入ってしまい、要所要所で力のゆるんだ味のある字が書けない。大体左利きは器用と言うのが定説であるが、例外もあるようだ。野球は左投げ右打ち、ゴルフも右、ハサミ、包丁、金槌は左、字は右でも左でも書ける。受話器左、消しゴム左というのは便利である。そのままで字が書けるし持ち替える手間が省けるから。
 余談になるが、サウスポーという言葉がある。辞書を引くとsouthpaw(米俗)左利き選手、特に左腕投手(南部出身の選手に多かったところから)とある。西欧では左利き用の道具は全く不自由ないくらい、出回っていると聞く。この面では日本はまだまだ後進国か。
 ところで、遺伝というのは恐いもので、我が家の子供は3人が3人とも左利きである。長男の時は、深く考えずに自分の受けた躾(?)を踏襲して直したのだが、小学校3年の時の先生に教育的誤りを指摘され、それからは自由にさせることにした。良いのか悪いのか実証はこれからである。
 話は卓球に戻るが、私がもう10年来レッスンを受けている女性の先生も左利きである。先生夫婦は中国ナショナルチーム出で、数年前帰化された。もし先生が左利きでなかったら、私はここまで卓球に熱心にはなれなかったのかも知れない。クラブ内で一番下手だった私は、まず真似る事から始めようとばかりに、必死に模倣を試みたものである。おかげさまで今では、他のメンバーと一寸は試合らしい試合が出来るくらいにまで成長してきたことは自負できる。あえて偉そうなことを言わせて貰えば、「習うは素直が一番なり」である。たとえ師が年下であろうが、女性であろうが、その道の教えに素直であることが一番の上達の道であることを体験している私である。


《羚羊の親子》

 三重県と奈良県の県境、標高1700メートル近い秘境大台ヶ原。月に三十五日雨が降ると謂われる雨量に恵まれて、幹廻り3、4メートルの杉や色々な種類の巨木の群生が鬱蒼と天を覆っている。
 人跡未踏、千古斧知らぬとはこの辺の事を云っているのだろうか。日本有数の森林の宝庫でありながら、国有林のためか一般の人の出入りは長い間全く無かった。
 この地に森林資源開発の名の下に林道を−と言うことで国の事業として数十年前から少しづつ道路が延び、その工事にと私も同郷の数人と参加した。初めての出稼ぎ生活であった。
 下請け会社のある尾鷲市の営業所から山腹を縫いながら来るまで三時間あまり、そこが工事の前線基地で山小屋に常時二十数人の人夫が寝泊りしていた。
 六月、梅雨の季節、土砂降りの雨は終日休むことなく、雨具に身を包んで、発破や強力な工作機械による岩盤の破片をダンプに積み込むショベルカーの手助け作業は決して楽な仕事ではなかった。
 曇り勝ちではあったが、珍しくその日は一滴の雨も落ちてなかった。2トンダンプの運転を時々やらされていた私はその日営業所倉庫に鉄筋棟の資材を取りに行くように命ぜられた。
 朝早く出ても帰りは夕方遅くなる。重労働から今日一日だけでも解放されるし、何しろ入山以来四十何日ぶりに、実社会の空気を吸えると思うと歓びが湧き上がってくる。地元の人夫達は二週間に一回は必ず里帰りがあるのに、遠方からの出稼ぎ者には保安要員として山を下りることはなかったのである。
 故郷への郵便物や電話での伝言や買い物等一切引き受けて車を動かしたら、このまま鹿児島へ帰ろうかとうとつぶやいて苦笑した。
 山小屋を後にして三十分位経ったろうか、少し平坦なところに出て前方左カーブの手前に、子牛みたいな二つの姿を見た。楓の木の下でジーッとこちらを見ている動物、あっこれがこの辺の山に居るという羚羊かと気付いた。色は木漏れ陽ではっきりしないが黒に近いねずみ色のようだと見た。ソーッとブレーキを踏んで車を停め、私はフロントガラス越しに見つめた。双方の距離は四十メートル位だろうか、どっちもただ相手を警戒して動かないことを決め込んでいる。穏やかで心やさしい眼差しの母親らしい方の頭が少し動いて、子供の顔を舐め始めた。この親子はこの道を登ってくる途中、車の音に立停ったのか、それとも私の車の前を進んでいたが、異様な音に気付いて振り返ったのだろうか。でないと道路の上の方も下の方も切り立った崖で、とても道路にひょっこりでられる地形ではない。
 物音一つしない深山に「車」と云う道路一杯の黄色い箱のような怪物を初めて見た驚きと珍しさの瞳の色だ。こちらは妻子と別れ異境の地に来てひと月半、しかも新聞やラジオとも絶たれ、俗界の汚濁や騒音とも久く縁のない身で、思いがけなく出逢ったなごやかな親子の姿。
 時間が止まったような十数分だった。



 突然信じられないような光景だった。二頭の親子が道路下にすっと消えた。まさかあんな断崖にー私は息をのんで車を進め、その場所に停まって下を見た。二頭は五メートル位
下の少し平たい狭い岩に窮屈そうに寄り添っていた。いくら生活の場所とは謂えこんな所に飛び下りられるなど神業じゃないかと思った。しばらく見てから、(そうだ私が居なくなるのを待って又道路に上がってくるつもりだろう。じゃ迷惑になるから)と思って私は静かに車を発進させた。
 尾鷲市で積み込みの仕事を終え、遅い昼食に食堂に入った。
(あれ?尾鷲の女は皆こんな美人揃いだったろうか、ただの一人として不美人は居ない)私は何か夢見ているような気がした。八十近い炊事のばあちゃんだけを見てきた四十過ぎの男の目に、(女って本当は上下無く全部美しいんだ)何とも恥ずかしい悟りだった。
 帰り途、あの羚羊の所に立ち寄ったが、期待に反して何も得られなかった。

 デイーゼル小型発電機の鈍い蛍光灯の下での夕食、コップに溢れんばかりの焼酎を口にしながら、今日の羚羊の話をした。隣に居た土地の人夫の頓狂な声に私は驚かされるよりも、底知れぬ悲しさを感じた。
「お前は馬鹿か、羚羊親子の立ち去るのを黙って見ていたと。何故ダンプで親子共轢き殺さなかったのか。ここの二十何人かの人が十日や半月の間、おいしい肉にありつけたのに、惜しいことこの上なしだ」
「・・・・・・」
何も返す言葉を見つけられなかった。
「時々銃声が聞こえるだろう?あれは羚羊や鹿撃ちの音だよ。勿論密猟だがね。谷川で解体して上肉の所だけを包んで帰るのさ、口止め料として時々ここを通るとき、三、四キロの肉を置いて行くんだ。そう、この前の晩に焼き肉食べただろう?」
「え、あの肉はカモシカ?」
「今頃何云うんだ。あのね、檜や杉だけで生活している人たちにとって、鹿や羚羊は憎い奴なんだよ。幼木を片っ端から食われて困っているんだから。何が天然記念物だ。絶滅危惧動物だ。あの動物は人間よりもそんなに大事にされなければならないのか」
「はい、あんたの云い分も理解出来ない事はない」
それだけが私の精一杯の反論だった。
(そもそも動物の天国に開発の美名で道路を造ると云うのは、人間のエゴなのか、私はその道路造りの仕事に賃金頂いている身だが)
 動物と人との共生は永遠に答えの出ない方程式だと云うのか。

(昭和四十六年六月末記す) (鹿児島・永田英彦)






老いを考える

 実母が京都の我が家に同居を始めて四年半が過ぎようとしている。三年半前に膝の手術をして老人車を押して歩くことが出来るのだ。執刀医との面接でボケの要素があると指摘されていたが、今そのとうりである。 
 退院後はリハビリも含めて近くの医院へ行き、同年代の人とも普通に会話が出来ていた。ある日、迎えに行き大失敗が起きていた。大便でズボンまで汚れている。匂いの凄いこと、本人はトイレできちんとしたつもりだったのだろう。何故匂いが解らないのかと思う。 
 又ある時は、何時ものように医院へ行ったので迎えに行くと、居ないのだ。もしかして?デイサービスで鞍馬口通りまで出てバスに乗るので戻ってみると、未だこの寒空の中バスを待っているのだ。二時間近く居たことになる。おかしいと感じ始める。
 小の方は以前から漏れがあったのだが、次第に多く漏れてくるようになる。本人は少しだという認識なので、パットをなかなか取り替えようとしないのだ。幼児より扱いづらいのだけれど、家族が嫌な思いをしているからと、何度説明しても、大丈夫と言い張る。椅子に座ってクッションがべっとりという日もあった。立てなくなった時に起こそ うとする私達の方が、腰にきついのだ。こちらに来て5キロ増えたのだ。
 自力でトイレ、食事(箸を使い)着替えは出来るだけする方が為になっていると思っている。声掛け、確認を何度も繰り返しながら過ごしている。根気も必要、体力そして 愛かな*****
 優しい言葉で接していない自分に嫌悪感を持つ。逆の立場になることも充分ある。子供達にこの気持ちを味合わせたくはない。
 娘はプレゼントや外食にと気を遣ってくれているけれども、忘れられていることが殆どだ。夕食を共にする、会話も言葉の反応だけれど、自己満足と心得、続けて行こうと思う。私の誕生日に、今日は何の日?と聞くと、誰かの命日?笑えるでしょう。食べた後に何を食べたかなと聞いても、「解らない」。
 現在座薬で大の方を出るようにしている。朝出ていても覚えがないのだから。実母の面倒が看られ、幸せやなと言った人、何人か居るのだ???
 仕事に卓球そして年1回の旅が出来るのだから、もっと大変なご苦労されている人もいるのだから。自分の健康第一で付き合って行くつもりだ。
 亡くなった伯父(79歳)元校長だった人にもボケが出ていた。私自身のこれからはどのように過ごせばいいのだろうかと、59歳を過ぎた今少し不安である。 (京都/U・S)







 少年時代(4)

〜進むべき道〜
 学生錬成会は異様な熱気に包まれていた。元来臆病者の私は隅っこでおどおどするばかりであった。県下各地から100名近い学生達が集まっていただろうか?そんなに多くはなかったかも知れないが、とにかく大勢に感じられた。丸三日びっちりの講義内容であった。食事、寝泊まりもすべて教会内で行われ、いわば缶詰状態であった。全くのちんぷんかんぷんのまま、この夏の体験は終わってしまった。しかし、内容は兎も角として、その会長先生をはじめ、若い青年教師方の熱い心は、鈍感な私の胸にも何か爽やかな風を吹き込んでくれたように感じた。そんな未熟者の私が、その時からある意味でターゲットにされ、熱心な(執拗な)勧誘を受ける存在になるとは想像だにしなかった。

 3年生になり、私は学校でまたもや嫌な場面に出くわしてしまった。新しいクラスの中で、新委員長が家庭の事情か何かで転校してしまったのだ。運の悪いことに私にその代役が回ってきてしまった。そもそもリーダーシップのかけらもない私にそんな大役務まるはずもないのだが、成り行きとは恐いもので、固辞する勇気も持ち合わせず、辛い最終学年の幕開けとなった。楽しいはずの修学旅行も点呼と報告しか記憶にない。記念写真の私の表情とは裏腹である。

 進学の進路決定が近づいてきた頃、私は漠然と「建築家」を夢見ていた。叔父達が皆工業高校出と言うこともあったかも知れないが、その意志を伝えると「先生の子が工業高校ではいけない」と訳の分からない理由で担任教師に突っぱねられた。(父も同意見だったのだろうか?)当時の田舎のことで、普通高校(進学校)、工業高校、商業高校私立高校と、暗黙の内に学力的なランク付けが為されていた。勿論明白な進路を確立している者は別問題であったが。丁度この年松江にも工専が出来たので、かなりの学力優秀者がその道へ進んだ。超文化系の私には無理な話であった。

 この年の夏休みは懐かしい想い出がある。転校生の井上君と二人で、生まれ故郷の隠岐島へ帰ったのである。祖父母の純朴なあたたかい歓迎を受け、魚釣りやテニスや、盆踊りや、受験をひかえた夏休みとは思えない程、童心に帰って満喫した。井上君はキリッとした男前で、スポーツマン(陸上・走り高跳び)。当時本流の華麗なベリーロールを跳んでいた。変な意味じゃなくて、男が男に惚れた・・・と言う感じだった。

 最も嫌なスタイルの、成績上位者の貼り出し等もあって、いやが上にも受験モードに入っていった。明白な自分の進路の決定もしないまま、取り敢えず高校へ・・・と言う感じだった。(父と同じ学校にいる)と言う状況が、私を一貫して束縛し続けて、その結果それなりの成績(表面上)は残していたが、実力から言えば出来過ぎだったと、今でも思っている。何せ廻りには先生よりも賢いんじゃないかと思うくらいの生徒も居たのだから。所謂頭が良いのと賢いのとは違うと言うことを、痛感する。


 部活のバスケットは、女子がものすごく優秀で、市の大会で優勝するくらいの強豪チームで、一時代(伝統)を形成しつつあった。一方男子は我々の次の学年から好選手が揃っていて、そこから又強くなっていったはづである。我々は谷間だったのかな。勿論私の存在など何の影響力も無かったのだが・・・。部室の会話は今思い出しても面白いものである。至って生真面目にならざるを得ない状況下の私であったから、仲間の喋る内容が、ある意味新鮮で、驚きもあった。思春期というか、性の目覚めというか、そんな話が交わされていたのである。どっちが普通なのか、それは断定出来ないけれども、少なくとも私の方が仲間より目覚めが遅かったことは事実のようである。全くと言っていいくらいその方面の知識は欠落していた。それもこれもあの束縛感のせいなのだろうか。

 いよいよ受験の時。それなりの緊張感はあったものの、倍率の低さのせいか、答案を書きさえすれば合格間違いなしの安心感の中で終わったように思う。確か9科目だったよなあの頃は。そして合格。どういうルートからだったのか、点数や県下で何番まで知らされた。実はこの出来すぎた入学試験の点数が、私の入学後のターニングポイントに於いて悩みの種となってしまったのである。それは先の話として・・・、解放感に包まれた私はバスケ仲間と一緒に高校へ行き、当然入部しますと言わんばかりに、練習に入れて貰ったりした。学生という時代を通して、一番ウキウキの時だった。これであの束縛感からも解放される。思いっきり青春を謳歌するぞっ。そんな感じだった。

〜高校時代〜
 前述の通り、解放された私はまさしく希望に満ちた高校時代のスタートをきった。私の入った松江南高校は、松江高校が北と南に分けられた新設校で、私達が4期目であった。小高い丘の上に鉄筋校舎がそそり立ち、グランドは未だ整備途中で、先輩達はその作業にも駆り出されたと聞いた。方々の中学から集まった優秀な人材(?)の渦の中で適度な競争意識と、のびのびとした心地よい環境が、何でも出来ると言う自信と勇気を起こしてくれるような錯覚を覚えるくらいだった。北高との対抗意識は先生方に異常なくらい強く、その熱気は我々生徒にも、すぐに伝わってきた。進学校丸出しのビンビン響く授業であった。

 ところが、解放感に浸りすぎていた私には、大きな落とし穴が待っていた。部活に入れ込みすぎていた私は、肝心の勉学の方が疎かになっていた。中間考査の数学でいきなり赤点(15点か20点)。おいおい入学試験は96点だったぞ。これが実力か?いやいや遊びすぎたんだ。気を引き締めてかからないと・・・。焦りとも奮発心ともつかない微妙な心理状態になっていった。

 そして、夏休み。心臓に異常感があり、診察の結果過度の運動は無理と言われ、やむを得ず、退部。下手なりに楽しかったのに、先ず一つ大事なものを無理矢理もぎ取られた感じだった。そしてタイミングを図ったかのようにあの「錬成会」の誘いがかかった。
今度は全面的な受け身から、幾分求める心が起こったのか、不思議なくらい足は重くなかった。中学と高校と言ってもわずか1年しか違わないのに、心はこんなにも大きく変わるものなのかと、自分の心境変化に驚いた。若者独特の斜に構える片意地みたいなものは消えて、真っ直ぐに見据える自分があった。             
                                       
 講義の内容のせいもあったかも知れないが、段々と世間(社会)の不条理や歪さに対する反発心と、それと並行して正義感(使命感)の様なものが引き出されて、今思えば完璧に一種コントロールされた心理状態になっていった。何よりも効果的(向こうから見て)だったのは、同世代の若者の強烈な実体験に基づく話であった。やがて話は、今自分が乗っているエスカレーター的人生プランを根底から否定され、無意味とまで言われ、こっちに真実の王道があると説かれ、辛うじて保っていた自分のバランス感覚は大きく崩れ始めて行った。勿論信じるか信じないかの決定権は自分にあるのだけれども、その判断を超越したところに核心があるように思えてならなかった。

〜家出〜
 私は家を出ることにした。当然父は反対した。教会の中に入り込む事にはむしろ家よりは良いだろうという思いはあったであろうが、人生の進路が限定(特定)される事への危惧の念が強かったと思う。父には私に教師の道を歩んで欲しいという願望が強かったのである。しかし私の決意は固かった。 

 教会での集団生活は新鮮であり活気に満ちていた。学生も1年先輩が3人、同学年が2人、後輩が2人いた。他に先生方や事務職員さんや賄いの姉さん方や総勢三十数名の大所帯であった。5時起床、掃除、礼拝、朝食、登校、帰ると夕食、礼拝、入浴、洗濯、勉強と行きたいところだが、ここに無理があった。当時は何の資料も謄写版印刷で、私もガリ版切りや印刷に費やされる時間が多かった。半分徹夜の時もあり、いきおい睡眠時間も勉強時間も削られることになっていった。しかしそれは反面やりがいでもあり、心地よい気だるさでもあった。

 当然の結果、学校生活は悲惨なものとなっていった。教会からの自転車通学もきつかったし、予習復習の出来ていない授業はついていけない科目が増えていった。卒業アルバムの寄せ書きに「ようねたなあ」とあるのは実感である。ひとには想像もつかない、あいつ何やってんだろう・・・と思われていたに違いない。困ったことに私の記憶の中から二年生の時の事が大部分消滅している。覚えているのは、半分登校拒否状態で親戚の家で祖母と半日かるた(花札)をして過ごしたりしたこと。職員室に呼びつけられて「壁に向かって立っとれ」とやられたこと数回。自分の知らぬ間に父が呼ばれてえらく説教されたこと。それにしても父は何も言わなかった。諦めか?時を待ったのか?夢遊病者のような記憶の乏しい年が過ぎていこうとしていた。


 大学受験の最終進路を決定するとも言える能力別・進路別クラス変えの前の段階で私は先生に呼ばれた。「どうするつもりなんだ」「・・・・・」「今の段階ではお前は男子で丁度50番位にいる。とは言っても、入試の時の持ち点が高いだけで、今の実力は疑問だ。しかし潜在能力はあるのだから、今からでも頑張れば国公立のコースで行けるのだが・・・」「・・・・・」話の内容は納得したが、とてもついて行ける自信はなかった。そして何よりも教会に身を置いている立場での、進学はあり得なかった。むしろ無駄な無益な選択としか見られていなかったから。意を決して私は言った。「就職します」 「?」「進学しません」「そんなコースはないぞ」「じゃあ私立文化系のコースでお願いします」「・・・・本当にそれで良いのだな。お父さんとは相談したのか?」「いいえ、自分の意志です」「そうか、よし」この段階で私の高校生活の重荷がひとつ消えた。と同時に、ある種の挫折感とも敗北感ともつかない虚脱状態が訪れた。進学一筋の皆が遠くへ遠くへ離れて行くような、何とも言えない寂しさが私を覆った。

 ある日叔父が教会を訪れた。私を連れ戻しに来たのだ。ずーっと後に聞いたことなのだが・・・その時私は叔父に対して非常に反抗的だったらしい。「おじさんも真理に目覚めないとダメだよ」と逆に説教(?)をされたという。私は話の内容を自分では覚えていない。近年宗教団体や集団生活団体における、親戚縁者の奪還闘争とか、最近では北朝鮮の拉致問題とか、我が子を引き戻したい側の悲痛な叫びを見聞きするとき、内にいる者の、心を支配された(この表現は適切でないかも知れないが)世界は、やはり異常だったのかも知れない。片方から見る(異常)はもう片方からすれば(むしろ断然正常)であり、そこにこそ(信じる)あるいは(信じ込ませる)と言う世界が広がっているのである。

 高校三年生、私は私立文化系コースのクラスに入った。理科系の科目はすべて英語の授業に切り替えられた。担任の先生は英語のK先生であった。何時の段階で話をしたのかは覚えていないが、K先生は私の立場、思いを理解してくれた数少ない人であった。
それともう一つ英語の授業に励める要因があった。それは、教団本部の方針の中に「海外布教」と言う魅力的な世界が打ち出されていたのである。今思えば、そんな甘いモンじゃないよ・・の道なのだが、その時の私には希望の道と写ったのである。

 卒業の時、父は隠岐島の都万中学校へ校長として赴任していた。小学校からずーっとそうだったように、身内の出席はなかった。親代わりに教会の(お姉さん)K事務員さんが来てくれた。濃紺のスーツに身を包んだ女優の原田美枝子似のその姿は、私を複雑な心境におとしいれた。五つ年上の彼女だったのだが、この卒業式がいろんな意味で(ふ・た・り)のはじまりとなった。

 私の門出は、身内の誰からも祝福されるものではなかった。







 
趣味の広場

去年、仕事である散髪屋に行ったとき、店のご主人に「渡部さんゴルフしますか?」と尋ねられた。「まだ100を切れないヘタクソですけど」と答えると、「どんなクラブ振ってるの?」ときた。「はあ、(つるや)の・・・」と答えると、仕事の話そっちのけで、技術指導が始まった。
 ひとしきりレッスン?があり、ご主人はやおらドライバーを5〜6本持ち出してきた。よく聞くと、クラブを制作していると言う。「売り込みか?」と嫌な予感がはしったのだが、「これが多分あんたに合うから、貸してあげる」と言われて、持ち帰った。
 それからしばらくして、コンペがあり、まず前半のハーフは自分のドライバーを振った。スコアも相変わらずならドライバーも安定しない。そして後半。借りてきたクラブでスタートした。すると距離は出るし、何より安定した球が行くのである。残りミドル1ホールで39。これは悪くても44,45は出る。そしてドライバー。う〜んグッドショット。安心した次からがいけなかった。2打目、シャンクしてラフへ。3打目チョロ。おいおい・・・・、結局トリプルで46。しかしまあドライバーには納得。
 数日後、報告に店へ行くと、「未だ返さなくても良いから、打ち込んでみな」と言われた。さらに「渡部さん、眼鏡買うのに、何を基準に買うの?・・・自分の身体に、眼に合ったのを買うんだろう。クラブも一緒だよ。有名メーカーの高いクラブを値段だけ見て買ったんじゃないの?」図星である。
 そう言われてみれば、今使っているパソコンも3台目だが、メーカーのネームバリューで買った2台とは違って、その道の通の人に、格安で組み立てて貰った事を思い出した。何でもそうか。卓球も一緒だなと思った。ひとが良いと言うから使うんじゃなくて、自分に最も合う道具を見つけることなんだな。自分で見つける能力がなければ、それを見極められる人(先生)との{出会い}が大切なんだよな。
 しかし、ここで肝心なことを忘れるところだった。向上に近道なし。道具だけでは腕は上がりません。精進、努力の積み重ねの上に花開き、実はなる事を。幸いゴルフも卓球も良き先生、良き先輩に巡り会えている自分の幸運をかみしめているところです。後は自分次第。うーん、結局ここへ帰ってくるのか。

(Update : 2003/12/31)