わたなべあきおWeb

Ne・o−activity  VOL..3  2002年10月

 日曜日の午後、garden partyの招待を受けて、地下鉄に乗って山科へと出かけた。得意先の工務店の奥さんが、英会話教室に通っておられて、その教室の先生と生徒さんの集まりで、実は旦那の話し相手がいないといううのが真相であった。
 先生は男性の外人講師二人と女性の日本人講師一人で、生徒さんは女性ばかりの六人であった。到着するとすでに始まっていて、焼き肉のにおいがしてビールやワインの口もかなり開いていた。
Davidはイギリス人で22才、もう一人は名前が思い出せないがオーストリア出身で彼も同年であった。女先生に年齢を聞くのはさすがにひかえた。みんな我が子みたいなものなのだが、外人はどうしてこうも大人に見えてしまうんだろう。これって日本人の外人コンプレックスなのかなと考えてしまう。まあしかし、私もおばさん生徒さん達に負けじと、貧弱なボキャブラリーを駆使して会話の中に入り込んでいった。
人間なんて言葉は違っても、ハートと身振り手振りで通じるものだと、既に経験済みなので、あつかましくブロークン・イングリッシュを連発してしまった。
 そのうちに歌の話になって、あなたの若い頃の歌は?と聞かれて、思い出すままに、クリフ・リチャードのヤングワンやコングラチュレーションやラッキーリップスを口ずさむと、彼も一緒に歌っている。お父さんお母さんの世代の歌を聴いて育っているのだ。やけに盛り上がって、サイモンとガーファンクルやカーペンターズまで飛び出してきりがない。でもボロラジオにかじりついて聞いていた頃のことを思い出して懐かしかった。
 奥様方の会話力もなかなかのもので、現役組には勝てないなと正直思った。レッスン通りの真面目な会話である。酔っぱらった私が「ごますり」や「お世辞」や「社交辞令」を「イングリッシュ プリーズ」とテレビのようなことをやるものだから、やや乱れ気味になってしまった。女先生が気を遣ってくれて、ホントに真面目に答えてくれたのだが、その答えを覚えていない。なんてこったい。
 スポーツと言えば、我々はゴルフで、Davidはもちろんサッカーで、問題はもう一人の彼の言う、オーストラリアン・フットボールであった。手も足も何でもありの、ゴールも1点、2点、3点とあって、人数は14人か15人で・・・てなわけで、Davidは「あんなのはスポーツじゃない」と言うし、彼は「最高に面白い、国では一番人気がある」と言うし、間に入った私達は、英語で説明されるルールが第一解らない。全くの珍問答であった。
 時はあっと言う間に過ぎて、次回はお寿司でやろうと言う事に決まって、お開きとなった。「次回も必ず来て下さいね」と言われたのだが、これが本当の社交辞令だったのかも知れない。いい加減にしろよ、酔っぱらい親父。はい、ゴメンナサイ。
帰りの電車の中でぐったりしながら、窓に映る白髪のおじさんを見つめていた。年をとったものだ・・・。またまた青春時代の想い出があれこれと浮かんでは消え浮かんでは消えした。そうだこんなこともあったんだ・・・。いま書き進めている少年時代から次の青春時代への原稿が、朦朧とした頭の中を駆けめぐった。
 それにしても、誰かが問いかけてくれたのだが、「何故いま、告白的自分史なのか?」自分でも明白に答えられない。強いて言えば精神的自己防衛か。書くこと、言葉にすることに依るガス抜き、バランス保持か。



公衆トイレの菊

 十六年に亘る私の出稼ぎで異色だったのは、東京の都心での土方生活だった。故郷大浦に似た田園地帯や離島の港湾工事等では考えられない多くの貴重な経験をした。
 場所は神田橋、首都高速道路から分かれて一般道に下りる橋脚の補修工事で、周辺には幾つもの私立大学のキャンパスがあり、反対側には経団連会館、読売新聞社、気象 庁分庁舎、その先にお堀が見え和気清麻呂の銅像も見え隠れする。
 十一月のはじめ頃だったと記憶する。その日は仕事が早めに終わり、人夫送迎のバスの来る迄少し時間があったので、一人で辺りの散歩に出かけた。悪臭と黒色に汚れた神田川の橋の処の歩道橋に行って、その東側の上り階段の下に異様なものを見つけて近寄った。
 高さ1.5m位、広さ畳一枚位の段ボールの囲い。恐る恐る背伸びしてその中を覗いて驚いた。段ボールを四、五枚拡げてその上に古毛布を敷いた上に、長々と体を伸ばして快い寝息を立てている老人の姿があるではないか。八十は過ぎていると見える白い薄い頭髪、赤茶色の顔は精悍で健康的にさえ見える。頭の横に小さな鉄鍋と空きコップ、全財産はこれだけなのか、世に云うホームレスの典型だろう。
 頭の上を昇り降りする数え切れない程の靴の鉄板を踏む音も、この人の耳にはまるで聞こえないのだろうか。いや、都心の超一等地に狭いとは云え家賃ゼロで住まわれる有り難さで、文句など云えないと諦めているのだろうか。「ここはあなたの城なのか」同情も軽蔑も忘れて私は只静かにその寝姿に見とれた。
 帰りのバスの中で先輩にその事を話した。「あの人達はね、夜行性動物なんだ。夜になると橋の下の置場から古いリヤカーを引いて、町中の自分の縄張りを空き段ボール箱専門に拾って廻る。店屋さんもそれを知っていて道路脇に積んで置いてくれる。両方とも助かるわけさ、二、三時間も廻り、リヤカー一杯になると彼等が集荷所と呼ぶ問屋に持って行く。四、五百円位になると聞いている。それが彼等の食費だ。にぎり飯かパン、牛乳等。決して忘れないのが一杯のコップ酒だそうだ。それを睡眠薬と自嘲して云うらしい。」
 その話を聞いて私は夜、布団の中で考え続けた。この老人には妻もないのか、子や孫は、とっくにひ孫が居てもいい頃じゃないか、故郷は何処だろう、どんな理由があってこの生活を続けているのか、この先、長くもない寿命だとの覚悟は出来ているだろ うか。故郷の山河を見ながら死にたいとは思わないのか、今この場所で行き倒れみたいな死にかたされたら東京都はどんなに迷惑するだろう・・・私は長い時間眠れなかった。                   
              
 段ボールのマイホームの老人を見てから三日後の夕方だった。バスを待つ間にトイレ に行きたくなって、近くにある小さな公園内の公衆トイレに走った。小綺麗に清掃された感じのいいトイレだった。さすが都心ともなれば行き届いたものだと思った。用を済ませ手洗い台の処に行って、私は我が目を疑った。縦横一メートル位の嵌め込みの鏡と手洗い台との間に棚があり、そこに縁の欠けた花瓶があって、まだ捨てるには惜しい白菊が飾ってあった。その前にあの老人が新聞紙にくるんだものを拡げていた。間違いなくあの老人だったのだ。
 老人は花瓶を手に取り、入っていた菊を出すと、拡げた新聞紙の上の黄色い三、四本の菊の元の方を手折って、高さを整えながら小声でつぶやいた。私はその独り言を聞き逃さなかった。
「何時もここのトイレと洗面所をただで使わしてもらっています。有り難い事です。せめてこれ位の事はさして貰わなくちゃ。」
 胸をキュンと締めつけられる様な感動が私を襲った。私は今までこの老人の外観からひどく失礼な事を思い続けていたのだ。一日精一杯働いて四、五百円の収入の中から、食費を差し引いて幾ら残ると云うのか。一本百円もする高価な菊を買う余裕などある筈がないではないか。自費で公衆トイレに花を飾る人が都民に何人いるだろう。
 私はあの老人のたった一言のつぶやきを何十回反復したか知れない。美しいのは菊の花にもまして豊かな老人の心だと気づかされた。 (昭和四十九年十一月の話)
       (鹿児島・永田英彦)





 少年時代(3)

 父は長江小学校は1年で終え、次は国語の恩師であるカイゴ先生のおられる持田小学校へかわった。この頃はまだ学校に用務員さんの居る時代で、先生も宿直当番があった。
当番が土曜日の時は、父は私を学校へ連れて行ってくれた。用務員さんの作る田舎料理を食べさせて貰ったり、宿直室に遊びに来る子供達とふざけたりした事を思い出す。怖かったのは夜の見回りで、部屋に一人で居るのも怖くて、懐中電灯ひとつで校舎を歩く父にしがみついていた。父はそんな私を励ますつもりなのか、やたら大きな声で歌を歌って廻ったりした。そんな夜の布団の中は、いつもとは格段違う暖かさを感じた。
 昭和36年、私は中学校へ入学した。ところが事件発生(私個人にとって)。父が同じ学校に転勤して来たのだ。しかも一年生担当でクラス担任まで。最初の内は誰も知らず良かったのだが、だんだん先生方から情報が出るものだから、忽ち「先生の子」の視線の中で生きなければならなくなってしまった。あの小学校時代のうきうき伸び伸びの学校生活は何処へやら、超真面目生徒の出現である。このプレッシャーは尋常ではなかった。何せ自由な動きが出来ないのだから・・・。せめて違う学年に行ってよと言いたかった。
 クラブ活動を決める時、私は何故か体育系を選んだ。経験から言えば、放送部や音楽部や新聞部なのだが・・・。たぶん同クラスの松本君の誘いで、卓球部に入ったのだと思う。今思えば、この時の僅か数ヶ月の卓球経験が、今日の私の趣味のかなりの部分を占めているのだから不思議である。数ヶ月と書いたが、実は球拾いと素振り練習の繰り返しの毎日に、些かうんざり状態で、(今思えば根性なし)一学期の内に辞めてしまったのだ。これからが大変だった。国語の担任だった永田先生が(父も国語だったので実子は教えられない)退部の事を聞きつけて、「若者は体をいじめにゃいかん」と言う訳で、先生が顧問をしておられたバスケット部に半分無理矢理に入れられてしまった。しかもU君や、まったく運動音痴のY君までも道連れにしてしまった。(しかしU君は後にバレー部に移り、キャプテン・エースにと華麗な転身を遂げた)Y君は気の毒なくらいの練習状態で、さぞかし辛かっただろうと今でも申し訳ないと思っている。余談になるが、我が子のクラブ決定の時、親の学生時代の話や写真が大きな影響を与えるようで長男も次男もバスケット部に入った。兄は小6の時ミニバスケットボールの全国大会に東京代々木体育館まで行ったし、弟はもっと本格的で、中学でキャプテン、高校でも副キャプテンをつとめ、大学でも同好会で続けて、社会人の今でもクラブ的に活動する徹底ぶりである。親である私のバスケットセンスは(きっかけがきっかけだから)お世辞にも良いとは言えないので、息子達の熱心さには圧倒される。もちろん技術論やNBA
の話にはついて行ける訳もなく、もっぱら「ふん、ふん・・」と聞き役である。
 国語の時間、永田先生は意識的と思えるくらい、「渡部、次読んでみろ」と名指しされた。私自身、内心はこの時だけが妙に自信があった。これは小学校時代の放送部アナウンサー経験の賜である。先生は「何とも言えない《間》がある」と褒められた。この《間》というのは口では言えない微妙な部分で、落語なんかで言うあの《間》である。恒に3,4行先を黙読しながら言葉は現行を発すると言う訳で、これは我が人生で唯一体得できた特技である。永田先生は面白厳しい(?)授業をされた。いつも鞭を持っておられて、ミスると遠慮なく机や時には頭にやられた。教え方もユニークで、助詞、助動詞も段活用も暗唱方式であった。今でも諳んじられるのだから効果抜群である。「が、の、を、に、へ、と、から、より、で、や、ば、ても、でも、けれども、のに、ので、から、して、ながら、たり、だり、・・・・」話は戻るがたぶん先生は何か大病をされたのだと思う。そんな外観であった。だからこそ私に「体を鍛えろ」と言われたのだと後から思いついた。ある時授業中ノートに落書きをしていたら、先生に頭をゴツンとやられた。その晩父に「今日落書きしてたのか」と言われて、改めて自分の置かれた立場を思い知らされた。当然と言えば当然の事だが、窮屈な心理状態になって行く自分が自分で嫌になった。友達からも「先生に教えてもらえていいなあ」とか 「テストの答えも」とか言われるし、反論も出来ない情けない思いをしたこともあった。
     
時には学年の先生方が大挙して我が貧乏屋敷に押し寄せてこられて、酒盛りが始まり、居場所に困った事もあった。それも今では懐かしい想い出か・・・。

 〜さすらいの予兆〜
 
 窮屈ながらもそれなりに勉学に勤しんでいたこの中学時代。我が家では様々な黒いうねりが押し寄せていた。父は仕事に復帰したものの体調は思わしくなく、兄は休学して帰ってきては居たものの、その精神状態は依然として衰弱気味であり、姉の高校生活も継母との折り合いが悪く、親戚の家へ出て行く始末で、家の中は何とも言えない重苦しい空気に包まれていた。父はもう心身共に疲れ果てていたのだと思われる。そんな折りある日曜日、継母方の知り合いとかで、年配のおじさんが父を訪ねてきた。その時は私自身には何の話かさっぱり解らなかったのだが、時を経て色んな人が頻繁に我が家へ来るようになった。どうも話が宗教的である。父は最初は無関心風であったが、さすが我が父(?)何事も優柔不断、よう断わらん質で、そのうちにどこかの会合に誘われるがままに出かけるようになった。しかし内心は藁をも縋る心境であった事は想像に余りある。後に聞けば、ある青年教師の弁舌に痛く惚れ込んで、それが入信のきっかけであったという。勿論直接の理由は、「心身不調」「家庭不和」「兄の問題」にあった事は言うまでもない。この際教義的な事を記する気はまったくないが、その教団は当時公称信徒80万人の新興宗教であった。意外にも信者の中に先生が多いという事も後に知ることとなった。
 2年生の夏休み、私を訪ねて他校の男女の学生が我が家へやって来た。2泊3日の「学生錬成会」なるものへの勧誘であった。この親にしてこの子あり・・・優柔不断の遺伝子を引き継いだ私は、何の抵抗も示さずその会に引っ張り込まれる結果となった。この会への参加が、私自身の歩み行く道を、良い意味でも悪い意味でも、大きく旋回させるきっかけとなった事は断言できる。それはカッコつけて言えば、(心のさすらい)の始まりであり、直言すれば(被マインドコントロール)の始まりであった。




 「・・・・・・・」

突然の貴方からのお便りで、正直言って驚きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
貴方はたぶん、今、幸せなのよね。こうして冷静に昔を語れるっ てことは。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
貴方はいつも遠くを見ていた。
何を探していたのでしょうか?
何を夢見ていたのでしょうか?
その無言の横顔が、・・でした。でも、同じことを想っているのではないかと
言葉に出そうとして、こわれるのが怖くて・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
多くの友が去って行きました。
多くの友がこの世におりません。
わたしは残された存在なのでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・
貴方はある意味で、幼かった。
でも、その幼さは、みんながずっと持ち続けたい純粋の結晶でした。
現実の壁に、砕け散る光。
今でも、貴方は、きっと、あの頃の輝きを失ってはいないでしょうね。

    (神奈川/K・A)


 日記帳(1)

みぞれの中を

駆けて市電に乗り込んだ

ぼくの手には

きみがかしてくれた色柄の傘

まるできみが となりにいるようで

思わず しっかり 握りしめてしまった

暗い窓の外に きみの微笑みを見つけて

あたりかまわず 笑い返してしまったよ



 日記帳(2)

いつも 家に帰る夜道は

いこいの ひとときです

どんなに暗くても 雨が降っても

一歩一歩 ゆっくり

いろんなことを 考えながら

思いめぐらしながら 歩いて帰ります

それだけが 慰めのような気がします

暗い過去を 忘れるためにも

今日の悦びを かみしめるためにも





趣味の広場

 先日思いがけず無二の親友から電話があり、「久し振りに飲もう」ということになり、これ又何年ぶりかで、歓楽街に出かけた。(最近は所謂接待もなくなり、もっぱらゴルフがその代わりをして、飲みに出る機会も少なくなった)食事の席では、お互いの近況や家族の話などをしてなかなか深刻な話の展開にもなったのだが、後半女性が一人合流して、「暗い話はこれ位にして、さあ、歌いに行こう」と言うわけで、スナックへ移動した。彼女の歌は抜群に上手くて、まったく聞き惚れてしまった。私もカラオケは好きで上手い方だと思っていたが、彼女のすぐあとでは、歌いにくくて仕方がない。カラオケ流行のころは、新しい歌を必死に覚えて、自慢げに歌ったものだが、最近はやたらと昔の懐かしい歌を歌うようになった。これも年齢と言う事か。ど演歌よりもちょっとバラード風のゆったりした歌を好むようになってきた。特に河島英五の「時代おくれ」が好きである。阿久悠作の歌詞に共感を覚えるところが多い。

時代おくれ 作詞/阿久 悠  作曲/森田公一

一日二杯の酒を飲み
  さかなは特にこだわらず
マイクが来たなら 微笑んで
十八番を一つ 歌うだけ
妻には涙を見せないで
子供に愚痴をきかせずに
男の嘆きは ほろ酔いで
酒場の隅に置いて行く
目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい

   不器用だけれど しらけずに
   純粋だけど 野暮じゃなく
   上手なお酒を飲みながら
   一年一度酔っぱらう
   昔の友にはやさしくて
   変わらぬ友と信じ込み
   あれこれ仕事もあるくせに
   自分のことは後にする
   ねたまぬように あせらぬように
   飾った世界に流されず
   好きな誰かを思い続ける
   時代おくれの男になりたい


生前、英五がラジオ番組で、この歌の歌い方を喋っていたのを思い出す。「時代・お・く・れ・の」じゃなくて、「時代・お〜くれの」と歌うんだと言う。その彼も今は亡き人。しかし魂の歌声は何時までも人の心に宿る。



(Update : 2003/12/16)