Ne'o−activity VOL.2 2002年 9月
8月11日(日)早朝京都の家を出て松江へ向かった。母校四期生卒業35年記念同窓会に出席するためである。5年前にも30年記念の案内をもらっていたのだが、都合がつかず欠席したので、今回が初めての同窓会出席である。 帰省ラッシュの交通渋滞が心配であったが、思いの外名神も中国道もすいていた。鳥取県に入ると曇り空になり、時々雨も降り出して、残念ながら大山の勇姿は見ることが出来なかった。先月キャンプで当地を訪れたばかりの妻や娘も残念がった。そして約4時間ほどで松江に到着した。89歳の父は意外と元気そうで、「やあー、お帰り、早かったねー」といつものように大声で迎えてくれた。この瞬間にまず一安心する。直に接しないとやっぱり駄目だなと思う。隠岐の祖父祖母の時もそうだったが(田舎の人は皆そうなのかな) 「風呂に入らんかね」と言う。いいよいいよと断って、ちょっとお茶を飲んでから、すぐ近くの病院に入院している義母を見舞った。いつも思うのだが、同室の患者さんに比べてすこぶる健康そうに見えて、どこが悪いんだろうと思ってしまう。父曰く「病院も商売だから・・・」なるほどそうかも。検査入院と称してあれこれと数字をこねくり回すのであろう。お金はかかるが、暑い夏のこと父の負担は軽減するはずである。と変な納得をする。義母は娘を見て「大きくなったねー」と言う。もう22だよと言いかけて止めた。発病以来あまり人や物の確認が出来にくくなっているからだ。そういう義母に根気よく付きそう父を見て、僕に出来るかなと思ってしまう。半身不随で言語障害の残った状態を、独特の粘り強いリハビリ法で、最低限の自分のことが出来るようにまでしたのは、父の力であったから・・・。 病院を出て、母方の唯一の生存者となった叔父の家へと向かった。叔父は昨年腸閉塞を患い九死に一生を得た人である。腸を1.5mも切除する大手術のせいで、お腹がへっこみ、そのため背中が丸まって、急に大年寄りなってしまった。父より5,6才は下のはずだが、父の方が若く見えるくらいだ。叔母も膝が悪くて、立ったり座ったりが億劫そうで買い物に行くのも辛いという。どこの家も大変だ。ここには子供がいないから余計だ。聞けば近所も似たり寄ったりで、老夫婦二人とか、どちらか一人暮らしという家がほとんどらしい。核家族化の弊害と言うか、大家族の生活が懐かしく好ましいというか、時代の宿命を感じてしまう。 妻と娘がスーパーへ買い物に行き、一緒に昼食をすることにした。いつもそうだが、話題は亡き家族の話になる。母方の家は、家長の祖父が50才で他界。叔父(次男)は特攻隊で戦死。叔母(長女)は子供5人を残して病死。その4年後母(次女)が死亡。そのまた6年後に叔父(長男)も病死。20年足らずの間にこれだけの家族が、しかもみんな若くしてこの世を去っている。悲嘆を通り越して祖母はもう腑抜けのようになってしまったという。残された叔父(三男)と一緒に長生きはしたがどんな心境で暮らしたのであろうか。幼かった私は知る由もない。 時はお盆。鎮魂の弔い回向、してもし尽くせない思いでいっぱいである。
少年時代(2) 母が亡くなってからの数年は、私の記憶の中には全くと言っていいくらい、何も残っ ていない。人の話を組み合わせてみると・・・それほど間をおかず父は再婚している。 しかもほとんどが父の両親の決めた話である。ここらが今の私には理解できないのだが まだ子供が小さいからというだけの理由でもなかろうに。継母は松江の人で初婚であっ た。私は前述の如くだが、兄姉は十分物心付いた頃年だったので、当然の結果が待って いた。結局姉は島に残って、祖父祖母の世話になり、兄と私は父母と一緒に松江に出ることになったようだ。島では若い校長だった父も、本土へ出ればまた平からであった。 外中原の家から父が長江小学校へ出勤すると、私が泣きながら追いかけて行ってどうし ようもないので、結局そのまま北松江の駅から、一緒に連れて行って、一日を学校の職員室で過ごしたということが何回かあったらしい。 今では考えられない話だが、時代と田舎の小学校 だったから出来たのであろう。兄は近くの一中へ通い、やがて松江城の北の北堀町へ移り、そして すぐに雑賀町へ引っ越したと思われる。少ない記 憶の中ではあるが、北堀町の借家では、階下の家主の子供達に陰湿ないじめを受けた覚えが残っている。それだけが引っ越しの理由でもなかっただろうが・・・。 雑賀町の家は私が入学する雑賀小学校のすぐ裏にあった。学校の始業の鐘の音や子供達の歓声や授業の先生の声さえ聞こえてくるほどの至近距離であった。誰にも干渉されない一軒家ではあったが、心寂しい一コマが私の中によみがえってくる。・・・父母は何処へ行ったのだろう、兄も何処へ・・・、夕方だんだん暗くなる家にいるのが怖くなり、表通りのバス停でいくら待っても誰も降りてこず、暗くなってもそこに立ちつくしていた自分。子供心ながらの親への憎しみとも何とも言えない感情が湧いてきたことを思い出す。兄姉のような露骨な表現とは違うが、ささやかな反抗心の火種となった瞬間 かもしれない。 故郷の家は小高い山の中腹に建っていた。本土やほかの島との連絡船が入ってくる入江沿いの集落を過ぎて、緩やかな坂道をのぼる。庄屋的名家の長い石垣沿いに歩くと、分かれ道があって、ちょうどその角に大きな岩と木の茂みに覆われた、きれいな冷たい 湧き水の出る水汲み場がある。上の集落の中間に位置していて、水道のなかったそのころは、水汲みが子供達の大事なお手伝いであった。その横のお堂を曲がって、さらに今度はちょっと急勾配の坂道をのぼると、我が家であった。大きな前庭があって、先端の崖に立つと、前述の入江が一望できて、典型的な一枚の絵になる風景が目の前にひらけている。庭の横には裏山からの水を溜めておく大きな槽があって、これが風呂の水として使われていた。風呂焚きも子供の仕事で、今でも火をおこすのには自信がある。家の中に風呂場が出来るまでは、外に五右衛門風呂が置いてあって、下駄を履いてゆっくり火傷しないように入ったことを懐かしく思い出す。勿論電気もまだなくて、ランプ生活であった。大きな囲炉裏とランプ・・・なんと風流なと思うが、当時はとてもそんな楽しむ雰囲気ではなかった。夜数時間だけの電気がきたのは何時のことだったのだろう。
昭和30年いよいよ小学校入学。今思えば、タモリではないが、私には幼稚園経験がない。先生対生徒の免疫のない私はおどおどした引っ込み思案の一年生だったようだ。 先生は写真で見るのも怖い小村おばちゃん先生。本当は教育熱心ないい先生だったのだろうけれども、その時の私には恐怖心の方が大きかったようだ。余談になるが、この入学式もはっきりしないくらいだから、私は入学、卒業、授業参観の類に親に来て貰ったことがない。普通の子が「母ちゃん、来なくてもいいからな」というとはちょっと違う、形の変わったコンプレックスみたいなものが、こんなところからも形成されていったような気がする。おそらく両親は、「小さい秋夫はどうにかなる」と思っていた節がある。 それよりも兄姉のことが重要課題であったと思われる。この頃、親にかまわれない、スキンシップのない、じゃれあうような親子げんかもない、そんな生活がどのように人間形成に関わってくるのか、ひとつ研究でもできそうなサンプルファミリーである。しかし、それもこれも後から考える事であり、私の小学校時代は中学、高校時代よりは、はるかに楽しい思い出深い6年間であった。 初恋?鉄筋校舎への建て替え工事の関係で、5年生の時の組み替えがなく、3年から6年まで同じ先生同じクラスメートであった。彼女は入学の時も一緒だったので6年間同じクラスだったことになる。クラス委員は選挙で決まっていたが、暗黙の内に、1学期はもっとも勉強の出来る男女二人ずつ、2学期は人気投票的なところがあって、私も彼女もなぜかずっと2学期の委員を務めた。 私は合唱団で、彼女は合奏団に所属していた。たぶんシャイな秋夫君のことだから片思いだったと思う。スキですなんて言える わけもないし・・・。学芸会の演奏風景を見て、小柄な身体に不釣合いに見えるくら いの大きなハーモニカで、いとも簡単げに 半音の上げ下げをこなす彼女の姿に見とれていたのを思い出す。曲名はたしか「クシコスの郵便馬車」(あってるのかなあ?)♪♪♪メロデイまで口ずさめるといううのは余程印象深かったのだろう。そんな私も結構悪友?が多くて、スカートめくりとまでは行 かなくても、ふざけたことはしょっちゅうやっていた気がする。ランドセルが買ってもらえず、風呂敷に教科書等を包んで登校していた私は、ある時から全部机の引き出しに置いて帰るようになって、それが先生に見つかって、「宿題や復習予習はどうするんだ」とお目玉をちょうだいしたこともある。でも子供らしくていいじゃんと変に居直っている。 丁度放送教育真っ盛りのころで、母校がモデル校となり放送設備も完備され、秋夫少年はなんとアナウンサーとなった。声と朗読には自信があったが、それよりも担任の田部先生の推薦が強かったのだと思う。みんなが給食の時間に放送室に入り、技術担当の生徒のサインもよろしくニュースを読んだり、放送劇もやったと思う。終わって昼の掃除の埃もうもうの中で、冷めた給食をかきこんだことを思い出す。中国地方全体の大会があり、多くの先生方や生徒さんを乗せたバスで、ガイドさん顔負けの観光案内をした事も懐かしい。(勿論綿密な原稿あっての話だが・・・)将来は放送関係に進むのか!と言うほどの渡部アナウンサーにも挫折の時もあった。NHK松江放送局の児童放送劇団(名称はうる覚え)の試験があるから行けと言われて受験したのだが、慢心ではなくて大いに自信があったのに、見事に落選。その上に「あれはコネがものを言うから」と聞きたくもない話も聞かされて、大人社会のイヤな一面を垣間見たような気がして、気力が薄れていくのを実感した。でもまだまだ良い想い出の方が多い。自衛隊のヘリコプターが学校の校庭に着陸して、クラスの代表が乗せてもらえるというのがあった。(あれは何の行事だったのだろうか)運良く私が選ばれて、生まれて初めて空を飛ぶ乗り物に乗り、話し声も聞こえないほど騒々しいだけの機内ではあったが、「街が箱庭のように見えてとても感動した」と小泉首相のようなコメントをしたことを覚えている。後で友達に**君が悔しがっていたと聞かされて、ちょっと滅入った。秀才君ゴメンナサイ。 大人社会では当然の如くあったであろう「差別問題」も当時の私にはまったくインプットされてはいなかった。「行ってはいけない」と言う場所に行って(本人は何も知らない)大いに歓迎され仲良く遊んで帰ったりもした。どうせ家に帰っても・・・というのもあったかもしれない。暴れん坊は確かだったが、彼が理由もなく疎外され、学校に来なくなり、と言ううのは、委員としてより、やはり友達として自然に足が向いたのだと思う。もう一人の彼は違った意味で不登校であった。誰もが貧乏であったのに。この種の問題のアプローチは、小学生の私には無理だった。私が近づこうとすればするほど彼は拒絶した。こちらの本心の伝わらないもどかしさを、子供心ながらあれほど痛感したことはない。彼は今どの空の下でどんな人生を歩んでいるのだろうか。 何年生の夏休みだったろうか、父の勧めでユネスコ教室に通った。顔なじみのいない教室で、適度に緊張感のある心地よい期間を過ごした。親父譲りというか確か「コトバ」の研究をしたと思う。ちょっと大人世界を背伸びして体験したような妙な充足感があった。放送関係にしてもコトバ関係にしても、たぶんそのまますんなり行けば、私はマスコミ、情報の道へ進んでいったと思う。しかし何の悩み事もなく楽しい学園生活を満喫していた私も、家庭の事情というか何と言ったらいいのか、抵抗の出来ない力に押し流されて無理矢理方向転換や迂回を余儀なくされ宿命とも言える暗雲の未知の世界へと突き進んで行くことになる。その序章的な時が5,6年生だったのだろう。 父の勤務先の都合で我が家はよく引っ越しをした。本当なら転校しなければならないところからでも、バスで同じ小学校へ通った。この頃かな?教材を引き出しに置いて帰っていたのは。 10歳の時、継母が子供を産んだ。それが機になってかどうか分からないが、継母の実家の裏の納屋の様なところへ引っ越した。そこはいわゆる大家族で、やたら人間が多く、お風呂ももらい湯だし、いちいち本家の玄関横を通らないといけないし、そんなこんなで私なりにストレスがたまったと思う。しかし生来の性分というかそれを外に出す術も心得ず、対外的には「笑顔良しのあきちゃん」で通っていた。どうも私は苦しかったり悲しかったりすると、表面は逆な表現をするようだ。内容は全く違うが後に下村湖人の「次郎物語」を読んで泣けて泣けて仕方なかった。だんだん継母の私に対する当たりがきつくなり(本人はそれほど自覚症状はない。母性本能の当然の結果か)表立って反抗しない私の心は、外面と内面のギャップというかアンバランスというか、どんどんすり減っていってしまった。そんな折り、父が腎臓病を患い長期入院した。血尿が出たのだ。 隠岐の祖父母は心配して煎じ薬を送ってきたりした。その薬を病院へ運ぶのがしばらくの間私の放課後の日課となった。その父は院内で読んだ文藝春秋のある記事を読んで、「このままでは殺されてしまう」と思って、自分から退院してしまった。副腎皮質ホル モンの恐怖という記事だったと後に聞かされた。次に訪れる大きな波の伏線になった出来事であった。今でこそ薬禍・薬害は公認のコトバであるが、当時はまだ医療・医学万能の時代であった。(私達が知り得なかっただけかもしれないが)
春遠からじ
冬来たりなば春遠からじ なる程 先哲はいい事を云ってくれた 今、日本国中は いや俺自身は 戦いに敗れてゼロから立ち上がろうとしている 野も山も村も街も荒れ果てている 新しい時代を告げる鐘さえも カンカン ガチャガチャ騒々しくて聞こうにも信じようにも 撰択の静けさがない 台風までも続け様に襲って食べものを奪ってしまった 胸を叩いてよく考えよう 負けてたまるか 俺は青年じゃないか 春先のポカポカ陽気にだけ花は咲くか? 酷暑の中にひまわりは咲き 霜を見て水仙の蕾はふくらむではないか チラチラ小雪の舞う日に咲く 寒椿よ 梅の花よ お前達は黙って咲いてくるね 「真夏に実るためには今こそ花が欲しいのだ 春を待つために冷たく短い冬の日のこのお天道の有り難さよ」 梅や椿のひとりごとが聞こえるようだ そうだ、冬来たりなば春遠からじ
(鹿児島・永田英彦 昭和22年19才)
断 章
愛児の死など
忘れさせてしまうような
暑さであった いずこの日とも思われず
日が照り
蝉が鳴いていた それなら
一体
誰に
語り明かす
相手が
あるというのか
おもかげを 索めてつきず 蝉の声 (一夫)
愛 児 夢 限
バーミリオンに灼けた
地平の一本道を
ちっちゃい頭が
ひとりぼっち
とぼとぼと
消えていったよ (一夫)
同 窓 会
同窓会は北松江の「ホテル白鳥」で行われた。弟に車で送ってもらいロビーに入ると、既にかなりの人数の人が集まっており、それぞれがあちこちで談笑していた。受付を済ませちょっと戸惑っていると、世話役の喜多川君が笑顔で近づき握手で迎えてくれた。そのうちお互いに確かめ合いながらの、とりあえずの挨拶が続き玄関前での記念の写真撮影となった。出席者名簿を見ると九十数名。そして会場のホールへ。各ルームごとにテーブルが用意されており、我が8ルームは12名で一番多かった。熱田君の名司会でいよいよ会が始まり、会長挨拶、乾杯、と進行していった。◆私は今回会いたい人が3人いた。勿論他のみんなも懐かしい人ばかりで、それなりに楽しい再会ではあったのだが、思い入れというか、ほのかな期待感というか、一種複雑な心境で会いたい人がいたのである。3人とも女性というのがいかにも私らしい?のだが、今書き進めている「少年時代」や次の「青春時代」の貴重な登場人物だからである。◆一人は初恋のひとである。しかし出席者名簿の中に彼女の名前はなかった。落胆と言うより、この種の淡い想いといううものはそのままずっと抱き続けるのが良いんだ、と無理矢理自分を納得させた。けれども・・・。◆次は中学生時代のひとである。3年生の時色んな事情があって私が無理矢理委員長をやらされたときの副委員長である。そのことよりもバスケット部のキャプテンとしての存在が大きかった。質実剛健の女性版の手本というか、頑張りやで真っ直ぐであたまにスーパーの付くひとだった。彼女は私の従兄弟がを校長をしていた小学校にも一緒に勤めた先生で、今は我が母校に勤めているとの事だった。実力があるのに昇進を嫌い生涯現役をと言う事で、彼女らしいなと思った。◆3人目は高校3年生の時の同級生でいわば心の友であった。変な意味ではなく、それとなく相手が気になる存在であった。ある種突っ張った感じで、私とは正反対に、色んな内在するもやもやを表にどんどん出していくタイプに見えた。その彼女がホールに現れるや、落ち着いた、自然な、さりげない雰囲気に、他人事ながら何かしら安堵感を覚えた。ああ良い人生を送ってるんだ・・・と素直に思った。その彼女の口から「オウムの事件の時、ホントにあなたを思った」とのコトバを聞いたとき、一瞬ドキっとした。あたらずとも遠からずであったからである。それ程にその頃の私の精神状態は危険な域に入り込んでしまっていたといううことであろう。彼女には人並みはずれた高感度の洞察力が備わっていたいたといううことか。彼女は流れに抵抗し我を見失わなかった。私は黒い渦の中に完璧に飲み込まれていった。そこのところは「青春時代」の中で書こう。◆私は彼女たちの中に、無意識のうちに母を見ていたのかも知れない。自分に欠落しているひたむきさや、芯の強さや、包み込む優しさを求めていたのかも知れない。恋愛感情を超越した何かを、そのきりっとした口元に、一点を見つめる澄んだ瞳に、伸びやかに飛び跳ねる肢体に、語らずとも漂う優しい心に・・・・、感じ取り、我を癒していたのかも知れない。止めどなく広がる甘えの心と淋しさに、必死に耐えながらもがいていた自分。そんな我が子を母は天空のはてからどんな思いで見守っていてくれたのだろうか・・・。くじけてはいられない、曲がってはいられない、そう思えば思うほど、人とは極端に違った道を歩み始めた自分。そして今この年になってやっと13才から22才までの10年間を、冷静に客観的に見つめ直そうとしている自分。と言う事は、今日までの歳月を要しなければ昇華しきれない程重い、重い荷物をしょって生きてきたという事か。いつか「どうしてそんなに苦しい方へ苦しい方へ行くの?」と年上の彼女に言われた。そうなんだ。もう一人の自分が「そっちではない、こっちへ行け」と凄い力で引っ張って行くんだ。◆大いなる語らいの中、各ルームから1名ずつのスピーチがあり、私も喋らされた。中学時代の(これは次号に書くのだが)父の教え子がかなりいたので、親父からよろしく・・と伝えて締めくくった。卒業写真を大写しにして現在とのギャップを楽しんだり、輪になって校歌を歌ったり・・・時は瞬く間に過ぎていった。二次会にも殆どのひとが大移動して又大いに飲み、歌い、語り、・・・待ち侘びた私の同窓会は終わった。◆喜多川君ともう一軒行こうと歩いたが日曜日ということもあって閉まっている店が多く、又次回にと言うことにしてタクシーで二人帰った。彼の「何故、君が?」の疑問には答えきれず終いであった。いわばその答えを私は書き始めているわけで。 まあしかし、何はともあれ、私の心はつかの間の心地よい安らぎを覚えていた。
おかあさん
もうはるかに母の生きた年齢を超えたのに
いくつになっても母は母
12、13才の
14、15才の
嫁入り前17才の
その時その時の母の残像に
恋をする 私
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