背景の記憶(56)
かごんま便り(珠玉の体験記)
ある知人から「出稼ぎの詩」と題した一冊の随筆集が送られてきたのは、5月の大型連休が明けたころだったろうか。 昭和40年代、高度成長期のまっただ中。道路や橋、ダムや堤防などの公共事業がにぎわいの盛りにあった時代。工事現場は九州や東北など、地方の農家からやって来た男たちであふれていた。 筆者の永田英彦さん(80)もそんな一人。10編からなる作品は足かけ16年、鹿児島との往復を繰り返し7都府県を渡り歩く中で見聞きしたことを書きつづったものだ。出稼ぎという言葉が余り聞かれなくなった昨今、子や孫に自身の体験を残したいとの考えから、わずか120部の自費出版を思い立ったという。 読み進めて驚いた。山奥の大自然、見知らぬ土地の珍しい習俗、出会った人々の心の機微。劣悪な環境で汗まみれ泥まみれの日々を重ねながら全編、曇りのないまなざしで貫かれている。「全くの素人の文章」(「はしがき」より)らしからぬ深い洞察と、かっ達な描写に感心した。 ややあって、南さつま市大浦町のご自宅を訪ねた。10人きょうだいの7番目、末子相続で父祖伝来の農家を継いだ永田さんは工業学校卒。文章を専門的に学んだことはないが「小学校で作文を褒められて以来、書くことは大好きだった」というから文字通り「好きこそものの上手なれ」であろう。特に感心したのは当時の日記で、日々の出来事が淡々と、しかし丹念に書き留めてあって、これが執筆の土台になったのだと聞かされた。 昨年、愛妻に先立たれ「書くことで一人暮らしの寂しさを忘れ、違った境地が開けないかと思った」と永田さん。今も地元の文化財保護審議委員などの要職を務めつつ、最近は随筆だけでなく短編小説も手がけているのだとか。座右の銘を聞いて納得した。「老いを美しく心豊かに」。私もいずれ、そうなりたい。
毎日新聞鹿児島支局長 平山千里
永田さんから届いた贈り物(ぽんかん)の中に封筒があり、その中にこの記事のコピーが入っていた。日付は昨年の9月8日(月)となっている。 永田さんは、もう40年前僕が隠岐島で叔父の仕事(港湾建設)を手伝っていた時に、鹿児島から来た出稼ぎ労働者の中の一人だった。上記の文中にも書かれているように、仲間のなかでも際立っった存在であった。すぐに親しくなり、毎夜焼酎を酌み交わしながら様々な話をしてもらった。そのころ、僕も「ひとりごと」というミニコミ誌的なものを書いていて、余計に話が弾んだのかもしれない。 お礼の電話をかけると、若々しい元気な声が返ってきた。お孫さんが11人もおられるとか。お医者さんやら薬剤師さん、東大・京大・広大に合格・・・なんとも羨ましいかぎりのご一家である。 そのお孫さんたちの成長を見届けなくては、まだまだ死ねないと・・・元気な笑い声が懐かしく嬉しかった。
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