背景の記憶(53)
彼女はものすごく達筆だった。流れるような文字が文章を一層引き立たせた。左利きを直された僕が、自己嫌悪に陥るくらいの流麗な字体だった。その腕前は、ペンがガリ版切りに代わっても同じだった。謄写版を刷りながら、彼女の字に見惚れ、己の角角文字を恥じた。
研修会用のテキスト作成では、彼女ひとりでは量が多すぎて、僕たち学生も応援に駆り出された。一冊のテキストに様々な字体・・・読者はきっと、その字の書き主を想像したに違いない。
まさしく<字は体を表す>か。
時が要求するというのか・・・やがて和文タイプライターなるものが事務所に導入された。このタイプライターは、活字箱に沢山の活字が並べられていて、目的の文字を機械でつまみ上げて、用紙に打ち付けるという方式のものだった。
彼女の挑戦が始まった。後のワープロとは大違いの代物で、活字を探すのも大変で、熟練の段階に至るまでは、相当の時間と努力を要した。それに・・・打ちミスをしたら修正がきかないので、新しい用紙で最初からやり直しということもしばしばだった。
そうして作られたテキストは、確かにすばらしい出来栄えではあったが、僕個人的にはハートの伝わるガリ版の方が好きだった。彼女が作っていたから〜かも知れないけど・・・。
時は流れ・・・彼女の綺麗な文字を見る最後となったのは、暑中見舞いの追記に書かれていた結婚報告の葉書だった。「姓が変わりました。どうぞお元気で」
わずか数行の文字の中で、彼女とのたくさんの想い出が蘇っては消えた。
さらに後々の回想・・・
♪涙で文字が 滲んでいたなら
わかってください・・・
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