わたなべあきおWeb

背景の記憶(50)

 「辞表を撤回するんじゃないかって思ってるみたいよ」昼食の時、事務員が僕に耳打ちした。「辞めると言ったら辞めるさ」と言うと、「お得意先〜取られるんじゃないかって思ってるみたいよ」
 
 そんなバカな・・・。第一この仕事をやろうなんて思ってもいないのに・・・。事実、先の計画は無かった。とにかく辞めてしまいたかった。後は、失業保険をもらってる間に考えよう・・・その程度の意識だったのだ。

 異様な三ヶ月だった。社長は隣のデスク。僕はまるで軟禁状態〜囚人のように読書をして過ごした。得意先にどんな説明をして廻ったのか、不思議なくらい家の方にも電話はかかってこなかった。

 いよいよ最後の日、僕は一階の事務所におられた社長夫人に挨拶をした。「ほんまに辞めるんやね・・・」「お世話になりました」誰の見送りもない淋しい瞬間だった。ましてや送別会など・・・。もっともねぎらいの言葉をかけてくれるような奴は、みんな僕より先に辞めて行ってしまったのだから・・・。

 初めて家まで徒歩で帰った。ゆっくりゆっくりとした歩調で。
見上げる夕空がとても美しかった。

(Update : 2009/05/06)