背景の記憶(40)
父から「脱出の名人」という称号(?)をもらったことは以前にも書いたが、脱出とは・・・「旅立ち」であり、ある意味〜「逃避」、「逸脱」でもあり、された側からすれば、「無責任」、「独善」と言われても仕方のないところだった。
それが「駆け落ち」とか言うのなら、小説にでもなりそうだが、(多少の気配はあったかも知れない)、僕の場合は・・・深刻なようでどこか身勝手な楽天家めいたものがあって、その意味ではまさに「名人」だったのかもしれない。
そうした性質は、おそらく今でも残っていて、時々プチ脱出を試みる。具体的な行動に出る場合もあるが、大方は無形の心の逃避と言っていい。
集団の中にいて、ぽつんと浮き上がった自分を意識するときがある。僕は斜め45度の上方からもう一人の自分を見たりする。イマジネーションの中では、頗る開放的で、意識界も異次元も、孫悟空のように飛び回る。(結末も一緒だが・・・)
最近つくづく思うことがある。本来なら・・・6人兄弟の末っ子。大家族での賑やかな家庭生活・・・の筈だった。ところが実際は、一人っ子の母なき子状態で、兄弟愛にも母性愛にも家族愛にも無縁の存在だった。
おそらく此処に起因しているのだと思うのだが、「何考えてるの?」「何処見てるの?」とよく言われる。心の遊泳とでも言えばイイのだろうか・・・別の世界へ行ってるようだ・・・。
そう言えば、擬似駆け落ちもあったような・・・。何の確証もない逃避行。今思えば、何だって出来たのに!どうしたって生きられたのに!
若さ故?
いや、すべては地に足をつけず、浮遊していた自分に責がある。
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