背景の記憶(21)
祖母が亡くなったのは昭和44年の秋であった。その葬儀に先日亡くなった母の従姉妹が参列していた。僕は「渡りに舟」というわけではなかったが、「脱出」を目論んでいた僕には、「京都に来ないか?」の言葉に、僕の心は動いた。
脱出と言っても、近距離では意味がなかったし、あてもなく放浪するほどの勇気も持ち合わせていなかった。加えて所持金も僅かであったし、京都行の片道切符が丁度良かった。
当時の叔母は五十歳を越えたころで、伴侶の営む事業も順調であったし、自身の華道・茶道の仕事も大忙しの毎日であった。
ところが性格とは困ったもので、礼節や美を求める世界に生きる人間にしては、お粗末な日常生活であった。着物は脱ぎっぱなし、掃除嫌い、食事も寿司屋、蕎麦屋の出前が主体だった。
脱出してきたとは言え、僕には数年間にたたき込まれた「下座行」が体に染込んでいた。自然に僕は掃除や片付けに労力を費やすことになっていった。
ところが、イタチごっことはこのことで、やれどもやれども、簡単に性格が改まるわけではなく、一週間もしないうちに僕は諦めた。最低限自分の部屋だけということにして・・・。
余談だが、似たような性格の持ち主は意外と多い。現在の仕事の仲間の応援に行ったとき、僕は彼の作業者の整理をしてやったことがある。何がどこにあるのかわからないくらいゴッチャ混ぜのトラックで、新品の材料も錆びて台無しになっていた。僕は品目毎に分類整理してやったのだ。
ところが彼の反応は意外なものだった。「前の方が良かったのに・・・探し物があったら、きっとどこかにあったのに・・・」と、僕には意味不明の答えだった。整理されていれば、不足の品も一目瞭然だし、何よりも道具や品物が守られる。
どちらの話も、夫婦なら「性格の不一致による離婚」というところだろうか?
話が飛んだが、後年・・・妥協というわけでもなく、何となくそれはそれで理解できるような自分になっていた。小事(雑事)には拘らず、メインテーマに最大限集中(没頭)すればイイじゃないか・・・みたいな。
叔母のデスマスクは綺麗であった。本来持ち合わせていた内奥の「美」を、その最期に輝かせたのかも知れない。ただ一人の「送る人」となった僕に・・・。
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