わたなべあきおWeb

これが自分ですから!

この世で生きて行くために、ある意味自分を殺して生きてきた。
ありのままの自分を出せる場所なんて、どこにもなかったさ。
外向けの自分が、そのまま僕のイメージとして定着し、一人歩きし始めたとき、本物の僕は出る機会を失ってしまった。
虚像とまでは言わないが、世渡り上手な自分がどんどん世の中に溶け込んでいった。

本物の僕は死んでたわけではない。ずっと見つめ続けていたさ。
それでいいの?それでいいの?を繰り返しながら・・・。本物の僕がそのまま生きて行くには、この世はカラフル過ぎて、めまいを起こす。洞窟から急に外へ引きずり出されたようなめまいを覚える。ゆっくり、ゆっくり目を開けなさい・・・そこには希望に満ちた眩しさがあるのだろうけれど、僕には太陽を直視したような閃光にしか見えない。

五十路を越えて、僕は自分の人間関係の整理をし始めていることに気づく。メッキ人間や腹黒人間や嘘つき人間を見抜く眼力は持ち合わせているから、仕分けは簡単なことさ。でもスップスッパと斬り進んだところで、虚しさが残るだけ。挑まず、立ち向かわず、静かにその前から去る術を覚えたのかも知れない。彼らには彼らの生きる世界があるさ。

男女を問わず、心開き、こころ赦せるひとを求め、繋がってきているように想う。それは数の問題ではなく、質の問題である。波動が合うひととは、いつもいつも一緒でなくても、繋がり合える。本質の絆はちょっとやそっとのことで失われることはない。
年に一度あるかないかの酒の席で、何年分もの心の栄養をわけてもらう。僕も同じくらい与えることが出来ているだろうか?

ホントは自分のことだけでも大変なくせに、ひとのことが気になって仕方のない自分がいる。何やってんのさ・・・そう言われそう。でも、それはそれでいいじゃないかと、心の中で言い返す。
それが僕。それが自分。慈悲心?利他愛なんてもんじゃない。
それが自分の意志とか学習とは無関係な魂の発露・本質。

もうこれからは、変わり者でいいのです。誰にも好かれる善人さんでなくてもいいのです。生きんがために媚びる必要性はないのです。倒れれば野草の露で喉を潤そう。病にさいなまれたなら、犬のようにじっと動かず、命の炎を掻立てて、自らの力で立ち上がろう。そこで力尽きればそれまでのこと。

(Update : 2005/01/15)