重いテーマ
父より手紙。たんたんと書いてあるがテーマが重い。
夕方、妻が寝床から起き上がり、「オトコノコ、オトコノコ」と言う。聞き流していたが、何度も言うので、起き上がり、ハテナ?仏壇の霊簿〜「水子ー昭和二十九年・・・」・・(五十年)やっぱり! 妻に何かのイメージがあるのかないのか、あるからそう言う言葉が出たのだと思うのだが、本人はそれ以外何の付言もない。 昭和二十六年年頭、前妻と「松江に出ようか」と話し合った当人が、夏ひと月病み通して九月一日他界。再婚。子供三人はそれぞれバラバラに。 (中略) 隠岐島から松江行きの申請、実現。妻、秋夫を連れて五月松江着。妻は七ヶ月の大腹。妻の母「前の子三人の上に産むとは何事!」抗弁する隙が妻にはない。私にもその暇がない。仕方がないから私は五歳の秋夫を連れ朝は前妻の母の家に預け、電車通勤。(ある日秋夫が泣きながら駅へ追っかけてきて、やむなく学校へ連れて行った日もある) 妻は弟嫁に付き添われて日赤へ。「確かに骨盤が小さいが、帝王切開という道もある。堕胎しても、母性愛が出て悔やむこともあるから」と反対された(らしい)。次は某病院に。「手術しましたから」と電話。驚いて駆けつけた。(あの時秋夫はどうしたのか)病院を探して行くと、手術はすでに始まっていて、聞けば胎児の首に紐を付けて錘を吊し、自然に出るのを時間かけ待つのだという。待つことX分。出てきた看護婦(隠岐出身と聞いた)が私に向い、「坊やでしたよ」と囁いた。が私は今更何をかいわんや。 母(継母)の権力は大きい。 その後弟嫁に男の子が生まれた。その可愛がりようといったら。秋夫は子守役。これも人一倍重宝がられる。 昭和三十五年一月二日*夫誕生。(日赤・帝王切開)今度は文句なし。その後何年か「七ヶ月堕胎」禁句。
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