わたなべあきおWeb

亜流

私は心の師を、これからというときに失ってしまった。それは僕には唐突すぎて、かなりの期間立ち直れなかった。

真の師とは、人生への開眼を与えられたいのちの恩人であるけれども、同時に師によって無形の拘束を受けることになり、本当の意味の自己のオリジナリティーを形成するのを困難にする場合も少なくないと思う。

その意味では、私は「これからというとき」と言ったけれども、むしろこの時期が私にとって、先生の亜流にならず、独自の境地へ躍入する大きなきっかけとなったと言えるかも知れない。

師をバックボーンとして、自らを実質以上のものに見せようとする連中を亜流と言うのだろうけれども、大方はこの域で満足してしまい、自分が亜流的存在であることすら気付かない。

私は傍目から見ても、のんべんだらりとしていて、いわゆる切れ味鋭いタイプでない。しかし内心は先生に教え込まれたことが沸々と煮えたぎっていて、いつ殻を突き破って飛び出してきてもおかしくないくらいのレベルにある。

しかし、それはあくまでも心の深奥のマグマであって、現実社会では如何に我が身を通じて表現して行くかということである。あたかもマグマが温泉を造り出すように、地熱を保つように、ゆっくりと、じっくりと浸透して行かねばならない。

私は大風呂敷を広げるつもりはない。あくまでも私の力量の届く範囲でのことである。そして願わくばその連鎖の躍動である。極論すれば一人(いちにん)のひとでいいと思っている。一人のひとに伝えたい。この真心。この誠心。この慈しみ。それが先生への恩返し。報恩の道。

(Update : 2004/05/18)