優しさの階段(2)
僕は「Neo・〜」にも書いている通り、〈笑顔よしのあきちゃん〉だった。当時の僕にそこまでの自己分析は出来るはずもないのだが、内面深く刻み込まれた傷を隠す〈仮面〉であり、その行動は〈ピエロ〉的でさえあった。笑顔と裏腹に心はいつも沈んでいた。そして心の眼はいつもはるか遠くを見ていた。
意図的であれ、否応なしであれ、子供に辛酸を与えたからと言って、子供が強くなるとは限らない。よく世間では苦労が人間を鍛えると言うけれども、本当にそうなるかどうかは、当人の心の学び方次第ではなかろうか。
高校時代の僕は、進学至上主義に雁字搦めの学園生活で、教師も生徒も同じ価値観に浸りきった(僕には異様な)空気の中では、僕は窒息寸前だった。
僕の心はズタズタだったが、顔は平然を装い、職員室の壁に向って何時間も立たされる自分がいた。他の教師は何を思っていたのか・・・コトバひとつかけてくれる教師はいなかった。スパルタ・熱血教師を自他共に認める彼には、誰も口出し出来なかったということか。さらし者のような場面の中で、心だけ飛べる自分がいたから我慢できたのかも知れない。
僕はいわば敗者、脱落者、落ちこぼれ・・・なのだろうけれども、不思議と憎しみとか仕返ししてやろうとか・・・そんな心は皆無だった。どこかで「可愛そうに・・・」というませた憐憫の情を抱く自分であった。
その時に優しさを意識したわけではないが、僕はそれ以後、人の内面を見つめる、人の心を感じる、そんな自分が形成されていったような気がする。それはもうほとんどインスピレーション的に察知できる。見えすぎて怖いときもある。でもやはりこれからも人の心を見つめる僕であり続けることだろう。
|