転機(決断)U
とにかく辞めることを決断した僕は、つぎどうするのかは何も考えず辞表を提出した。規約通り三ヶ月前を守ったつもりであったが、会社は意外なというより、常識では考えられない行動に出た。
得意先引継の挨拶回りナシ。電話も出なくてイイ。ただ事務所の自分の席に座っているだけ。何という仕打ちだろうか。僕はまたもや言葉を失った。僕の席は社長の隣に位置していたが、僕は斜め右を向いて、顔を合わさずひたすら我慢比べの毎日となった。
後から伝え聞けば、会社は僕が得意先を取ってしまうと思い、その警戒心から、僕を缶詰にしたと言うことらしかった。さらにはそうすることによって、僕の決意を覆す意図もあったようだ。しかしそんなことで動揺するようでは男じゃないと思っていたし、僕はデンとして、事務所の番人役?に徹した。
娘の病状は深刻で入院治療も長期戦となった。これと言った治療法もなく実験台(モルモット)的患者となり、新薬投与も頻繁に行われていった。妻の疲労も限度を超え、体重も三ヶ月で10キロ近くも減少した。しかし泣き言ひとつ言わない姿が余計に痛々しかった。会社と家と・・・板挟みのような複雑な心境でこの時期を過ごした。
そんなある朝、僕は1階の受付に呼び出された。下りてゆくと見慣れないいかつい男が立っていた。僕は瞬時に理解した。「喫茶店へ行きましょう」僕はそう言って外へ出た。出された名刺は金のロゴ入りで、直ちにその世界のひとと分かるものだった。「もうお解りでしょうが・・・」顔立ちとは似合わぬ低姿勢な言葉遣いだった。「ハイ、おいくらですか?」「*百万」「分かりました。あさって来て下さい」「えらい話が早いやんか」
実は前日の夜、僕は知人(ある意味恩人)に呼び出され、事業の行き詰まり、夜逃げ、等々僅かな時間に告げられていた。焼け石に水状態の時、僕は保証人のハンコを押していた。三人目ではあったが上二人はもうそこらにはいない存在だった。
喫茶店を出て事務所にもどり、僕は社長に退職金の前借りを依頼した。多少の絡みもあったので、社長は言葉なく同意した。
明くる日、同じ喫茶店に彼はすでに来ていた。封筒を差し出すと彼は確認すると、「珍しいやっちゃな。これ・・・」と言って万札を2枚おいて帰った。
このときはまだ自分で事業を始める気はなかったが、後々考えてみれば、車にしろ事務所や備品にしろ、開業資金の全てをこの段階で失ったわけである。しかし、僕の心はそれほどの悲壮感はなかった。むしろ「身に付かん金やったんや」という一種のあきらめと言うか、達観した思いがあった。会社はこれでまたおいて下さいと言ってくると思ったらしいが、それこそ男が廃ると思った。
たくさんの部下や仲間の送別会はやってきたが、さすがに僕のは行われなかった。淋しさよりも俺の船出にはこれで良いのさという、醒めた自分がいた。そして胸の奥底で「クソ〜!」という何とも言えない闘志がみなぎるのを押さえきれなかった。
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