『隔生忘却』
三十前のある日、誰の法事だったのかは覚えていないが、その時のお坊さんの法話が忘れられない。「生を隔つれば(即ち)忘却す」と読み下すのであろうか?自信はない。人間は勝手なもので自分の興味のある部分だけ聞き入るところがある。
人間はこの世に生を受けたとき(母の胎内に宿ったときなのだろうか)過去世(前世)の自分を忘却すると言う。そして同じように死ぬ時、今生の自分をあの世(来世)では忘却していると言う。生まれたときのことは分かるような気がする。しかし、死んだときは、あの世で「ああすれば良かった、あれは嬉しかった・・・」と自分の生きていた頃を振り返り、歓喜、懺悔することの出来る自分がいるような気がしていた。
それからの話が肝心であった。現世の辛苦は過去世の自分の所行の写しだという。ただ単に生まれてから善行悪行の結果ではなく(もちろんそれもあるにはあるのだが)前世の自分の生き方が今に表れているという。病も貧困も人間関係も、ありとあらゆる事柄がそこに起因しているという。「俺はこんなに一生懸命真面目に生きているのにどうして恵まれないのだ、なぜ報われないのだ」こんな悩みを抱く人間が多いという。現世一端のことにとらわれすぎた結果だという。
同じレベルであの世での幸せを願えば、今この人生で如何に善徳を積むか、如何に罪悪を少なくするかということになる。「どうせ死んだら終りさ」「たった一度の人生だ、おもしろおかしく生きようぜ」こんな人生観が蔓延するこの時代にあって、この話は飛躍しすぎた滑稽な論理だろうか。
僕はこの法話を聞いて以後、わが家の宿業、因縁を考えるようになった。そして生き方そのものも刹那的なものは失せ、じっくりはるか遠くを見つめる目が備わってきたような気がする。
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